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Copyright 2009 by OKAMOTO INTERNATIONAL AFFAIRS RESEARCH INSTITUTE: Preferred Citation:Yutaka Okamoto, International History Series, East Asia - First of the Special Series on Japanese History (May 2009) 
                                                              
                                                                                      - to the English version -

         日本史の中に隠された いま一つの北族系文化の系譜

                                 エミシの分裂と東国武家社会成立の歴史的意義の再評価
                             ー 日本人、日本文化とは何かを我々自身が問い直す時が来ている −
 
             
                                                                         岡本 豊

                                                                             August 31, 2006
はじめに

1.私がこの問題意識を持った動機

私は、1950年代を大学生として東京で過ごした後、北族系アジア人の遠い先祖に当たる諸族がベーリング海陸橋を徒歩で渡って北米大陸に移住し、南端の チリにまで歩き続けたという、ゲルマン民族の大移動をはるかに凌ぐ人類史上でもまれな民族移動の大ロマンに魅せられて単身渡米し、北米とアラスカに二十 数年にわたって在住し、その間インディアンやエスキモーとの直接交流が可能な職業を選んで生活を続け、1983年に日本に帰国後は、アメリカ大陸に渡った アジア系民族の原 郷に近く、また日本人の北からのルーツのそれでもあるロシアの沿海州やハバロフスク州の先住民族との直接交流を、現地支援のNGO活動という形で続けてき ました。

そして、その間に得た直接の見聞と体験から、直感と本能的な確信に導かれて研究を続けた結果、1990年代に入って遂に一つの大きな作業仮説に到達しまし た。 私 はそれを、「リマン海流移住ルート説」と呼んでいます。一言でいえば、それは「太古の時代に極東シベリアの森林地帯で狩猟採取の生活を営んでいたツングー ス系の諸族や、蒙古高原に端を発する諸族(以下本稿では「北族」と呼びます)が日本列島へ海路で移動し、中世日本の武家社会の重要な歴史的ルーツを形成し た」という作 業仮説です。書き言葉の無いこれらの渡来人た ちは自らの文字資料は全く残しておりませんが、その可能性を示唆する傍証は少なからずあり、それらを出来るだけ多く各方面から集めて相互関連の検討を続け てお ります。

これらの渡来人たちは、シベリア東岸のタイガ森林地帯の南縁部の故地を後にして大興安峰以南の満州の平原に出て西からの騎馬民族文化に接触し、南からの中 原の青銅器文化を摂取する過程で独自の牧馬畑作文化を生み出し、扶余、高句麗、北魏、遼、金といった北族王朝を興したのでしたが、その流 れの中心の波に乗り切れなかった人達は、リマン寒流に乗って日本海を南下し、更に対馬暖流に乗って能登半島以北の、いわゆる越の国に漂着とも言えるかたち で移住を続け、 東日本各地で列島中央部以北に特有の牧馬畑作文化を拓き、その子孫が遂に東国の武家社会文化のルーツとなり、今日の東アジアで日本がユニークな特徴を持っ た歴史的、文化的位置を 構築するのに、南からの水田稲作文化とともに重要な役割を果たしたという仮説がそfれです。


2.日本史を形成した二つの重要な渡 来文化の流れ

この仮説から導き出される新しい日本史の展開ダイナミズムには、古代日本に北東アジアの大陸部からの渡来人によってもたらされた二つの別個な流れによって 構 成されます。その第一は、言うまでも無く朝鮮半島経由で渡来した先進ツングース系の天孫族グループで、前史時代を経て奈良朝から平安朝に至る王朝と、唐文 化 を模倣した律令制国家の建設過程で主役を演じました。日本の古代史研究の流れには、いわゆる「皇国史観」派に加えて、私がこれと区別して「やまと史観」と 呼ぶ、中国側の、中国人の見た倭の国に関する古文書や文献を主な資料として、古代中国文明の列島への伝播という視点から日本古代史を研究する流れが戦後の 歴史学界、特に古代史の分野では主流となってきたのはご承知のとおりです。

これに対して、私がここで提示する歴史認識上の重要な新しいテーマは、次の第二のタイプの渡来人と、彼らの日本文化へのユニークな貢献と、それが日本で果 たした重要な歴史的役割です。一口で言えば、それは大陸の、いわゆる「満州平野」に進出して牧馬畑作農耕段階に達した後進ツングース諸族が古代に東日本に もたらした文 化的貢献です。彼ら北族系渡来人は、3−4世紀から7−8世紀にわたって日本海のリマン海流を経由する海路で、少人数で長期間にわたって繰り返して直接に 東日本(越の国)の各地に移動してきました。彼らの重要な特徴は、大陸では中原の文明の影響は、金属製武器や農具以外にはほとんど受けずに日本に渡来した という事実です。そして更に大切なのは、東日本の僻地に持ち込んだツングース系複合文化である牧馬天水畑作文化を、彼らは黒潮に乗ってはるか南半球から 北上してきた水田稲作文化と組み合わせて稀有な多重複合文化を創造し、遂には東国武家社会を列島に生誕させたという事実です。この過程で形成された北族系 の騎馬武者文化の担い手が、いわゆる坂東武者たちであり、彼らが中核となって形成された鎌倉幕府の勢力が、平安朝の政治勢力との相克関係を遂に克服して両 者の相互依 存的共生を可能にするする、日本独特の中世的世界を生み出し、近世に入っては世界史的に見ても安定度の高い、東アジア独特の開かれた「絶対主義的」社会と 文化が形成されたのでした。

わたしはこの二つの北族系の文化が、水田稲作文化を媒体として共生共栄するようになったという特異な日本の歴史と文化を、数千年にわたって北東アジアの大 陸部から朝鮮半島にかけて興った多様な北族系王朝文化 とは一味違った「列島型北族文化」と呼びたいと考えております。中世史の担い手の「武家社会」とその尚武文化の発祥の地鎌倉が東アジアの離れ島の、更なる 僻地 の東国であったにもかかわらず、南からの文化との融合に成功した武家文化は中世から近世にかけて日本全土を覆う支配文化となり、鎌倉幕府が発布した「貞永 式目」に始まる武家社会の慣習 法「武家諸法度」は、江戸時代の寺子屋の教材テキストとして広く使われるまでにその影響力を浸透させ、今日でも、海外ではわが国が「サムライの国日本」 という目で見られているという事実の背後には一体何があるのかという問題に納得的に答えることこそが、日本の歴史と文化の独自の本質を日本人自身が再発見 す る鍵となるのだと考えます。

日本史では中世と近世と呼ばれるその後の十世紀近くの歴史的時間の中で生み出された最も重要な制度は、勃興する武家文化と京都の朝廷文化の間に創り出され た 政治的・文化的共生関係で、それはわが国独自の北族的文化伝統の維持を安定的に可能にするものでした。これとの比較で大陸の北族である鮮卑族の建てた北 魏王朝の例を見ると、中国文化への傾倒と没入の過程で、北魏の王族の場合は、北族特有の「王は人にして神、神にして人」というシャーマニズムの伝統を仏教 文化と融合させ、雲岡石窟の如来佛に見られるように自らが持つ神の概念を「仏陀」に置き換えることで、鮮卑族の北族的な宗教と文化の伝統は中華文明に同化 し、その中に埋没して しまったのでした。しかしこれは、当然起こるべきことが起こったのであり、中国文明の懐の深さを示すとも言えるのですが、日本列島で、暖流と寒流が交流す る島国ゆえに可能であった人種と文化の伝播条件によって発生した独自の複合北族文化は、大陸とは逆に隋唐時代の中国の古典文化をそのままで温存するが、そ の後のダイナミック中国史とは別の、独自の北族系文化が形成されたのでした。

この意味では、列島型北族文化である日本の武家社会は、北族的文化伝統をより忠実に維持し、天皇を伝統的な北族文化の「現人神」として全国統治の宗 教的象徴に据えて、古神道と仏教との緩やかな共生をも許容する、シャーマニックな伝統を生かした高度な複合文化を作り上げたのが大陸には見られない顕著な 特徴です。これは、武家社会文化と京都朝廷文化という二つの異なった北族系の文化の流れを、自らの歴史的伝統と北族文化特有の価値意識とを、水田稲作文化 を媒介する長い試行錯誤の結果ついに日本独自の、高い持続性を持った融合文化の形成に成功したというユニークな歴史的事実を反映しています。


3.東国騎馬武者文化の成立過程の謎と皇国史観の抱える問題


奈良時代以後の東国では、エミシの恭順と平定が進むのに平行して、北族系のエミシの間では、自らの政治的、軍事的な自立基盤の整備と、水田稲作も取り 込んだ「開発領主」型の複合経済基盤の形成が進み、東国に特有な「イエ型」の武家社会が初期の形成過程に入り、京都政権に対してみずらの政治的・軍事的独 立を確保できる 各条件が徐々に整いつつありました。そして遂には鎌倉幕府の成立という形で武家社会の勢力が朝廷側のそれを凌駕し、京都と鼎立する鎌倉政権が 確立され、幕府による全国の実効支配を可能にする準備が整ったのでした。

その間、西日本は、794年に朝廷が平安京に遷都したのを画期に平安時代に入り、大唐帝国の崩壊後は遣唐使の派遣制度が廃され、天皇家を中心とする京都の 華やかな王朝文化が開花し、独自の「国風文化」も創出される時代となりました。西日本にも出自と性格の異なる武家社会が興りつつありましたが、鎌倉幕府 が象徴する武家社会本来の質実剛健な尚武文化のマグネティズムと京都朝廷の優雅な貴族文化の都会的誘惑との間で揺れ動き、朝廷政治に深く関わった平家一族 を中心に次第に都会化が進んで平安貴族文化の風に染まるという傾向が顕著になり始めました。

これに対比する意味で、これとは対照的に東国に起こった坂東武者の文化の出自と性格について、もう少し触れておきましょう。11世紀から12世紀 にかけて東日本に発生した強力な騎馬軍団を擁する東国武家社会は、基本的には下記の二つの要因によって東国にだけ出現し得た画期的な新事態でした。この二 つ を次に簡単に説明しておきます。

第一には、平安朝文化、すなわち唐代に大陸から直輸入された律令文化の影響範囲から遠く離れた東国の自由な 天地では、4世紀以降牧馬を伴う天水畑作農耕文化が広く展開しました。水田稲作を伴わないこの農耕文化の初期の担い手は、北東アジアから幾世紀にもわたっ て渡来してきたツングース系種族であり、大陸では中 国文化の直接の影響下に無かった彼等は、北方ルート経由の多様な農作物を海路東日本に持ち込み、縄文時代からの先住民族であるプロト・アイヌの文化との平 和的共生関係の構築を進めたのでした。すでに比較的高度な農耕段階に入っていた彼らの子孫は、数百年を経て高い自己防衛力と経済的自立性を具えた「イエ社 会」の文化を生み出すのに主役を演じたという歴史的蓋然性は非常に高いと私は判断しています。東国型の「イエ」を構成する一族は、血縁を超えた持続性を特 徴とす る複合農耕基盤を安定的に管理する生産単位であると同時に、一族の生産組織はそのまま軍事組織としての役割も立派に果すものでした。この意味で は、北族系複合文化のなかの騎馬民族的要素が明示的に受け継がれているという事実も明瞭に見て取れるのです。

奈良・京都の政治権力の側はしかし、彼等を縄文時代以来のアイヌ系を含む列島の先住民族と同一視して「あずまエミシ」という漠然とした集合名で呼び続けた 結果、唯一の歴史資料として 朝廷側に残った東国エミシ征伐に関する記録は、後世の日本史の理解と解釈に重大な混乱と誤解を生み出した可能性があります。弥生期に急速に西日本全土に広 がった水田稲作農耕を 伴う文化が、東日本に伝播する過程で目立ってスローダウンしたらしい事実がよく指摘されますが、その主要な原因の一つは、すでに自己完結的に機能して いた北族系の牧馬天水畑作農耕文化が自らの主体性を確保しながら水田稲作文化を「イエ制度」の中に組み込むのには、それ相当の時間がかかったはずであると いう可能性に注目する必要 あります。その結果、東国武家社会はその経済基盤(=人口扶養能力)を飛躍的に増大させ、自衛のてための軍事力のみならず、源平合戦や承久の変に見られ たような全国制覇をも 可能にする卓越した動員力を支える経済基盤を構築するに至ったのでした。

第二に、経済力に加えて自衛のための強力な騎馬軍団を備えるに至った東国の北族系の初期開拓領主集団の勢力が拡大した結果、京都 政権のエミシ平定と北辺の守りは、しばしば騎馬戦に卓越した能力を持つ彼らとの間で苦戦を強いられることとなりました。そしてその結果、朝廷側は政策の転 換を迫られ、もはや彼等を「まつろわぬあずまエミシ」としてではなく、「熟(ニギ)エミシ」或いは荒エミシの「俘囚」として友軍に取り込み、 可能な限り朝廷による東国支配のための現地徴発軍として、軍事活動や兵站基地の維持に活用するという政策に転じました。同じ北族系の文化伝統を持つ西と東 の両勢力の間で は、相互理解と協力関係の構築には、異民族や異文化間では不可避な深刻な相克は無かったことも手伝って、東日本から東北各地のエミシ平定と同化の作戦はこ れ以後 は急速に進んだのでした。

788年に始まったアテルイの乱の鎮圧から、前九年の役(1051)の阿部氏や、後三年の役(1083)の藤原氏の討伐という形で続いた北征は、このよう な京都政権側の融和・同化政策に最後まで従わなかった諸族の抵抗と滅亡のエピソードであったと見てよく、平安の末期には北族系エミシの形式上の「皇民化 =公民化」は急速に進み、ほとんどの場合かれらは東国武家社会の事実上の中核的構成部分に変身した結果、平安末期には京都朝廷側の歴史の記録から「あずま エミシ」という言葉自身が忽然と姿を消すという事態が出現します。そしてこの時代を境として、かっての荒エミシの一部や津軽エミシは、本州北端の陸奥の地 や蝦夷地(北海道)に追い込まれ、自らのアイヌ民族としての独自の 存在と文化をかたくなに守り続けるまつろわぬ北方異族の蝦夷(エゾ)としてその名を歴史の記録に残すこととなったのでした。


第一章 大陸側の北族系異族王朝と漢 王朝の比較

わが国の専門家の間では、千数百年の長期にわたって大きな断絶なしに続いたこの国の歴史に注目し、「日本は、アジア大陸から海峡を隔てた島嶼国家であった ので、中華文明 からの過度の影響や、直接の軍事的、政治的干渉や圧力を受けるのをまぬがれ得たのだ」という趣旨の説明が繰り返されてきました。
なるほど、大陸側には、扶余、高句麗、百済、新羅といった、日本と海峡を隔てた朝鮮半島から旧満州南部にかけての地域で興亡した古代の塞外民族(本論で は、匈奴や突厥のような 純粋 の騎馬民族以外の大陸北東部の塞外民族を指して北族と呼びます)の王朝に加えて、朝鮮半島以北から大興安嶺に至る満州の平原に興亡し、しばしば万里の長城 を越えて中国北部に侵入して非漢王朝を建設したグループには、鮮卑の北魏、契丹の遼、シベリア沿海州以北にまで支配を広げた女真の金や、女真、後の満州族 の建てた大帝国の清、といった北族系の征服王朝の 興亡の長い歴史があります。(添付の地図参照)

しかし、これらの北族王朝はしばしば自らの部族と占領した地域の漢民族を二分支配する必要に迫られましたが、次第に中華文明との直接の接触を深めた結果、 中国文化への傾斜と 同化が加速度的に進み、その過程で自らの北族文化の衰微と消滅を座視せざるを得なかったのでした(「文化融合と文化融解の歴史的類型:岡本豊」参照)。 4000 年有余の中国の歴史を彩ったこれらの北族系王朝は、中国文化の多様化と国際化に大いに貢献したのは否定できぬ事実ですが、すべての場合、征服王朝は比較的 短期間に衰退と滅亡の運命 を辿りました。漢、隋、唐、元、明、清といった中国の歴代主要王朝の中にも、蒙古民族が建てた元帝国や、満州族の征服王朝である清帝国のような著名な例が ありますが、日本にまで来寇 した元帝国の場合などは、1279年の建国から1368年の崩壊までの百年にも満たない短い期間にその生命を終わっており、清帝国は北族系の王朝では最も 長い 三百年以上にわたる歴史を残しましたが、辛亥革命の結果1912年に生まれた中華民国にその席を譲りその生命を終えています。


第二章 東日本へ北族文化を海路移植 した渡来人とは

大陸側に興ったこれらの北族王朝がすべて消滅し、離島の大和王朝だけがその北族文化を継承した体制の存続を担保できた理由については、すでに最初に触れた ように、日本が大陸と海を隔てた列島国家であったという指摘も納得的ではあるのですが、果たしてこれで必要にして十分な説明なのでしょうか。
大元帝国の日本来寇については、文永の役(1274)に、元・高麗の連合軍4万が、更に弘安の役(1281)には、朝鮮からの東軍と江南軍をあわせて 14万もの大軍が4千隻の船に分乗して北九州に来襲したとされています。もしこの際に、鎌倉幕府による全国の有力武家に対する支配体制と、防衛のために必 要な戦闘部隊を動員して北九州に派遣し戦闘を遂行するという総合的な能力が日本側に無かったとすると、二度の元寇は一体どのような結果を生んでいたでしょ うか。

それは、京都朝廷の自前の防衛軍の苦戦と敗北に終わったことはほぼ間違いありません。事実、京都朝廷側がこの国難に対処する手段として自主的に行い得 たのは、大規模な厄払いの祈祷行事でしかありませんでした。それ以外には何らなす術が無かったのだと言ってよく、この意味では、「神風」とはむしろ台風 そのものよりも、鎌倉幕府に象徴される全国的に統一された尚武的な武家社会がすでに当時の日本に存在していた事実だったと言っても過言ではないのです。宮 廷貴族化した 京都朝廷側とその近衛軍だけでは、島嶼国日本も、大陸の北族諸王朝と同様、衰退と滅亡の運命を辿った可能性が非常に高かったのだといわざるを得ません。

この試論の主要な前提である、「東国武家社会のルーツは、大和王朝とは、同じ北族の出自ではあっても、半島経由の天孫族系ではない別個の北族文化である」 という作業仮説とその傍証を収集する方法につ いて、ここで一言し ておきましょう。傍証を積み重ねて私が裏づけたいのは、一言でいえば、東国の武家社会の主なルーツは、実は大陸からリマン海流に乗って能登半島以北の東日 本沿 岸に直接移住して独自の牧馬 畑作農耕文化を育て上げたツングース系の渡来民たちであり、後に奈良・平安期には「エミシ」と呼ばれて討伐と平定の対象となった東国各地の土豪集団で、そ れ以前からの先住民族であった プロト・アイヌ系の人たちとは異なった出自と文化を持っていた、ということです。

自衛のための武装化を進めたこれらの土豪たちの先祖の大陸の原郷や、日本への渡来と定着の経緯については、自分の書き文字を持たなかったアルタイ語族の彼 等は、アメリカインディアンと同様、何等の資料も残していません。文字資料が存在しない場合には、西欧史学でも中国の史録でも、そしてこれを踏襲した日本 の場合にも研究対象としては認 められませんので、歴史学を職とする人達にとっては研究の対象領域外の事象であり続けたのでした。しかし、朝鮮半島を経由しない北族系の人々の東日本への 渡来の可能性を強く示唆する複数の説得力のある傍証が、大陸側にも日本側にも存在しているのは、自 然科学と社会科学で新しい研究領域や技術が進んだ今日では否定できない事実です。更に時代が下って、古代から中世初頭にかけて東日本に興った武家 社会の起源についても、同じ意味で資料不足と歴史研究の分野での制約が存在していて、今日でも不明な部分が非常に多く残されています。

私は、1950年代末に渡米し、北米大陸部とアラスカで二十数年にわたって居住し、インディアンやエスキモーと直接交流を重ねる機会を持ちましたが、 1983年日本に帰国した後は、アメリカンインディアン達の原郷の一つであるロシアの沿海州やハバロフスク州の先住民族との直接交流を重ねてきました。 その結果、私は本稿の主題「リマン海流移住ルート」の存在を確信することとなり、以来それを支える傍証の更なる確認と証明に多くの努力と時間をかけてきま した。この作業仮説の証明はまた、文明と未開の間の深く暗い谷間に光を当てるために、アメリカ大陸全土に住む、自分自身の国を持たず、自らの文字による過 去の記録を持たないアルタイ語諸族の復権の一助にもなれば幸いです。

(I) 大陸側の傍証

1)渡海ルートとしてのリマン寒流と対馬暖流

リマン海流ルート(添付の海図参照)は、北からの寒流は沿海州寒流と北鮮寒流となって極東ロシアの日本海沿岸を経由して北朝鮮沿岸を南下し、対馬暖流に接 続しています。この後、暖流は日本の沿岸を反時計回 りに北に流れています。これを利用すれば、比較的小さい船でも,沿海州や朝鮮半島の北東部から南下し、ウルルン島から竹島と、島伝いに若狭湾へ、或いは中 央部か ら対馬暖流に乗って能登半島以北の、いわゆる越の国の沿岸に漂着に近い形で渡来が可能であり、この渡海が予想外に容易であるのは近年時として北朝鮮から漂 着する小船の例や、朝鮮半島全体からのプラ廃品の流着パターンからも明白です。

主としてツングース系諸族による日本列島へのこの種の避難的渡来については、おそらく後漢の滅亡後の三国時代(230−280)の動乱期に始まり、五胡十 六 国の乱(304-439北魏が華北統一)と呼ばれる地域政治勢力間の暴乱が打ち続いた3世紀から6-7世紀にかけてが最も重要で注目すべき期間でしょう。 動乱 に明け暮れたこの期間のリマン海流経由でのツングース族の列島への移動は、航海上手の沿岸民の穢・貊(わい・ばく)族と共に断続的な波となって繰り返され たと考えられます。その結果、すでに6世紀半ば以降には東日本特有の牧馬畑作農耕文化が各地に定着していたという事実は、日本側の考古学分野での発掘事例 ですでに確 認されているからです。

更に、高句麗の滅亡の後に生まれた渤海国(698-926)の版図は、地図で明らかなように、北東の現在のロシア沿海州にも大きく伸び、この時代に大和朝 廷からの遣唐 使がしばしば利用した渤海国ルートの航海記録が「文字」で残されています(添付の地図参照)。

下の海流図の緑線が日本->渤海、赤線が渤海->日本の海流に乗った航路だったようですが、このルートは、渤海使によって使われましたが、前 述の航海上手の穢・貊(わい・ばく)族が以前から使っていたものとほぼ同様だと考えられ、日本海沿岸の越の国に渡来したツングース系の諸族の粟末靺鞨や、 沿海州の黒水靺鞨、後の女真(現在の沿海州、ハバロフスク州のウデへ族)の場合も同様だったと考えられます。

渤海国は、「日本道」と呼ばれる航海ルートを開発し、能登半島、加賀、越前、佐渡方面への航路がしばしば使用されました。晩秋から冬にかけて大陸から吹 く西北風や、夏に吹く東南風も航海に利用され、大和朝廷との政治、経済的交流が行われていました。残念なことに、大陸からのそれ以外の海路の渡来に関する 資料は少なく、大和朝廷側、即ち朝鮮半島と北九州経由の事例しか文献としては残っていません。しかし、例えば豫章記などに記されている数多くの渡来事例が あり、しばしば相当な規模の武装渡来集団の事例までが記録されてい ます。

2)4世紀から9世紀にわたる地球寒冷化の影響

数世紀にわたって続いたこの寒冷期には、日本列島でも、今日の新潟県以北では水田稲作は困難となったという事実が知られており、黒潮の洗う日本列島とは異 なり寒流沿いの沿海州や南満州では、より一層寒冷化の影響は大きかったはずです。これは、少なくとも、アムール河やウスリ河流域から南満州に移動していた ツングース諸族の命がけの南遷を促したに違いありません。

3)6世紀には立派な帆船が使用されていた

この時期には、日本での発掘土器に描かれた船が明瞭に示しているように、外洋航行に耐える規模の帆船が使用されていた事実はすでに知られています。ただ し、 この種の船がリマン海流による移動にこの時期に利用されたかどうかは不明です。北鮮から満州、そして沿海州沿岸には、穢・貊「わい・ばく」という、これも ツングース系だと言われる、操船と航海術に長けた種族が住んでいたのも知られています。彼等は、日本が遣唐使に使った百済・新羅系の渡海技術よりも高度な 航海技術を持っていて、しばしば越の国の各地に漂着した記録があります。

4)この時期に南満州地域から移住した北族の多様性

高句麗は、度重なる唐との抗争に敗れて滅亡し、北族新興国の渤海にその席をゆずりますが、この頃までの数世紀に日本海沿岸各地に渡来した非軍事的小集団 の中には、シベリアの故地では深い竪穴住居に住み、狩猟と初期粗放雑穀農耕の生活を営んだ人たち(粛慎、ゆう婁、匆吉タイプ)をはじめ、靺鞨、女真の段階 を経て 扶余や高句麗が歩んだ南満州での文化融合の過程にある程度参加し、中原から伝播した青銅器文化と西に広がるステップを経由してきた騎馬民族文化との習合の 過程で生まれた牧馬畑作 文化の担い手となった人達まで、多様な発展段階にあった人々を含んでいたはずです。

(II) 列島側の傍証

1)若狭湾以北の列島沿岸各地の未開拓と過疎の状況

4−5世紀から9世紀ごろまで続いた気候の寒冷化のため、水田稲作前線は新潟あたりまで後退していたという状況下では、この時期の日本海沿岸の東日本各 地では、西日本からの稲作開拓移住の大きな移住の波は当然見られなかったわけですし、縄文期とは逆に、東日本は西日本に比べると過疎で未開な地域でありま した。大陸から の移住者たちにとってはしかし、これでも東日本は比較的温暖で、牧馬畑作農耕には好条件に恵まれたあこがれの地帯でした。

2)東日本にしか見られない北方系の農作物の存在

明らかにシベリアのステップを経由して東日本に伝播したことが確認されている北方系の栽培植物が今日まで存在し、栽培されG続けているという事実がありま す。しかもそれは、西日本 経由で伝播したのではないことが科学的にも証明されているのです。その痕跡が西日本では全く見られない北方系の大麦、雑穀、根菜類といった重要な畑作品種 が、東 日本に今日でも存在するという事実は、リマン海流ルートをによる人の移住の可能性を前提しない限り何としても説明のつけようがありません。

3)6世紀半ばの群馬県子持村の育馬畑作農耕遺跡

群馬県子持村の牧馬畑作農業遺跡(6世紀半ばの古墳時代)は、榛名山麓の群馬県子持村の火山灰の厚い層の下から発掘されたもので、東日本のナラ林帯、特 に東国地方では、西国と異なって、6世紀以後には、アワ・ヒエ・ソバなどの雑穀類や麦類といった北方系作物を主とした畑作と牧馬の慣行が強く結びついた東 国特有の畑作文化がうみだされていたのを確実に証明しています。そして、その文化の伝統の中で、9世紀末から10世紀ごろにかけていわゆる「しゅう馬の 党」が生ま れ、中世の騎馬武士団が形成される基礎条件が成立したのです。

相当高度な牧馬畑作文化の実在が証明された子持村のような遺跡では、村落共同体内での耕作強制(いわゆるヨーロッパ史で言うフリュール・ツバング, Flurzwangに似た)制度が存在したことがこれによって確認され、畑作を基盤として、平地式建物や畜舎のある整然とした農耕文化が実在したことを示 す動かぬ証 拠であることが次第に明らかになりました。

これは、日本の過去の標準的な歴史教科書が描く、古代から中世への移行の過程で討伐と平定の対象となった未開の民「エミシ」のイメージとは全く異なりま す。エミシと言う集合名詞で呼ばれた東日本の住民は、明らかに多様な発展段階にある種族と文化で構成されていたという事実が明るみに出たのです。

4)5世紀半ばの長野県伊那谷の馬の殉葬墓

これに加えて、近年長野県伊那谷で発見された馬の殉葬墓の場合は、5世紀半ばごろのものと見られ、百済からの渡来人によるものかとも言われてもいますが、 この時期にすでに相当な規模の馬匹の需要と、それにこたえる生産拠点が東日本に存在していた事実を示唆しています。これはまた、育馬畑作文化が東国の地に 広範囲に広がっていた可能性をも当然意味します。

しかし、リマン海流ルートを経由して渡来した人々が馬と畑作文化をそっくりそのまま東日本に持ち込んできたのだという証明は存在しません。むしろ、この地 に移住してきて畑作 農耕文化を展開した人達自身が、自発的に牧馬の慣行を日本で取り入れた可能性も当然ながら否定すべきではないでしょう。これは、北米インディアンが、スペ イン人から急速に乗馬技術 を取り込んで騎馬戦の名手となったという事実から見ても、当然あり得ることは明らかです。

5)陸奥、越(男鹿)のエミシの言語の多様性


日本書紀には、「甲午に....陸奥と越のエミシに饗たまふ(斉明5年3月ー659)」という記録があります。ここにはまた、「甲午(きのえうまのひ) に、甘樫丘(うまかしのをか)の東の川上(かはら)に、須弥山を造りて、陸奥と越とのエミシに饗へたまふ。(川上、此をば箇播羅=かはらと云う)」に続い て、「この月に、安部の臣を遣はして、船師百八十艘を率いて、エミシの国を討つ。安部の臣、飽田(あぎた=秋田)・渟代(ぬしろ=能代)、二郡のエミシ 二百四十一人、其の虜三十一人、津軽郡のエミシ百十二人、其の虜四人、胆振さへ(いふりさへ=伊浮梨娑陛)のエミシ二十人を一所にえらび集めて、大きに饗 たまひもの賜ふ。即ち船一隻と、五色のしみのきぬとを以って、その地の神を祭る。ししりこ(肉入籠)に至る。時に、とひう(問菟)のエミシいかしま(胆鹿 嶋)・うほな(菟穂名)、二人進みて曰く、「しりへし(後方羊蹄)を以って、政所(まつりごとどころ)とすべし」という。(肉入籠、此れをば之之梨姑=し しりこと云う。問菟、此をば塗[田比]宇=とひうと云う。菟穂名、此をば宇保那=うほなと云う。後方羊蹄、此をば斯梨蔽之=しりへしと云う。政所は、蓋し 蝦夷の郡=「こおり」か。)胆鹿嶋等が語に随ひて、遂に郡領(こほりのみやつこ)を置きて帰る。陸奥と越との国司(くにのみやつこ)位各二階(ふたし な)、郡領(こほりのみやつこ)と主政(まつりごとひと)とに各一階(ひとしな)授く.....安部引田臣比羅夫、粛慎(ミシハセの国)と戦いて帰れり。 虜四十九人献るといふ。」という記述があります。

上記の引用文の中で朱色になっている単語は、明らかにアイヌ語ではなく、その音韻からしてツングース系の言語であり、これはまた、万葉集(巻14- 3451)で東国の馬の牧場の風景を詠った東歌に、「左奈都良(さなつら)(常陸の国、或いは安房の国と言われる)の丘に粟まき(愛)かなしきが、駒は食 (は)ぐとも我はそとも追じ」といった地名がでてきたり、和泉式部(974-?)の恋歌に、鴨緑江を「阿利那礼(ありなれ)河」という、今日誰でも知る 高句麗以前の時代の、恐らく女真語に近いツングース系言語の古音(原[プロト]北東アジア語)である事と併せると、東日本の育馬畑作農耕文化と北族のツ ングース・蒙古系のアルタイ言語とのつながりには高い蓋然性が見られます。記紀の記述がエミシのことを粛慎(ミシハセ)と呼んでおり、「毛人」でも「エ ゾ」でも無 いのは、まさに遠征の対象となっているこの種のエミシは、初期段階の牧馬畑作k文和を持ったツングース系の人達であったことを意味しいます。

6)7世紀以降の「エミシ」の内部分解と騎馬軍団の登場

「日本書紀」と「続日本紀」には、孝徳大化元年(645)から平安時代(794-1185平家滅亡まで)の初期までエミシの乱と平定の記録が多数残されて いますが、すでに奈良時代からの征夷大将軍の東国派遣が、軍事征服よりはむしろ政治的懐柔と同化による「平定」の方向に向かっていたことはこれらの記録か ら明ら かです。養老二年 (718)には出羽と渡嶋のエミシが朝廷に千頭の馬を献上したという、誇張を割り引いても驚くべき記録さへあり、この事実を間接に証明 しています。

討伐から懐柔へというこの政策転換は、すでに奈良時代から、ニギエミシに対しては対決よりも「和合」と「恭順」と「同化」に導くという政策で始まってお り、8 世紀から9世紀初頭にかけては、朝廷側の記録にエミシの騎馬戦による頑強な抵抗が報じられています。例えば、「エミシとの戦いにおいては、普通の弓ではな くて機械の弓を以って大量に敵を倒す方法を考えないと勝てぬ。彼らは天性、弓馬に巧みな民族であり、政府側の軍隊は、十人かかっても一人のエミシに勝つ こともできない」と、承和四年(837)の政府側の文書が述べています。これは、明らかにアイヌ族の抵抗への言及ではあり得ません。

また、上掲のエミシに対する防塞に駐屯する部隊が良馬欲しさに自分の武具を溶かして鋤、鎌、鍬などの農具を作り、それをエミシの馬と交換するという行為が 急増し、9世紀から10世紀の京都朝廷は、これは北の守りへの脅威であるとして禁止令を繰り返して出しています。当時の東国各地にすでに広範に牧馬畑作 農耕文化が存在していたことはこれによっても明白ですし、それが支えるエミシの騎馬軍事力を朝廷側は現実的に評価し、このような妥協と懐柔の政策が採用さ れたとの推測も 可能となります。

この時期の東国では、北族の出自を持つエミシの恭順と平定が進むのに対して、北族系のエミシの側でも、自らの政治的、軍事的な自立基盤を整備する努力が進 み、経済基盤 の確立と共に東国の武家社会の原型がその姿をあらわします。京都政圭~からの政治的・軍事的独立を担保する条件の確立が徐々に進んでいたのでした。

その結果、11世紀から12世紀にかけての日本社会では、強力な騎馬軍団を伴う東国武家社会の出現という画期的な変化が起こります。これを可能にし、また 助長したのは、京都政権が、もはや彼等を「まつろはぬエミシ」としてではなく、「俘囚」として扱い、可能な限り東国支配のための軍事力として取り込みを 計り、東国経営に利用する姿勢に転じたという事実なのでした。

前九年の役(1051)の阿部氏や、後三年の役(1083)の藤原氏の場合は、このような京都政権の融和・同化政策に対するツングース系のエミシの最後の 反抗であったと見てよく、これを契機として、いわゆる「エミシ」は京都朝廷側の歴史記録から忽然と姿を消し、以後は、かっての津軽エミシ、すなわち 本州最北端から北海道に住むアイヌ種族だけが、エミシではなく蝦夷(エゾ)という名でその存在を記録に残すこととなったのでした。


第三章 日本文化の北族的要素と北東アジアの近代史


[1]北族(塞外の民)の 衰亡の原因


この原因を吟味する手段として重要だと考えられるのは、北族系王朝の支配階級が辿った中国的「貴族化」の過程の分析でしょう。北族系王朝では、多くの場合 自分の部族集 団に対する統制と、支配下に入った漢民族の統治を、二つの異なった原理で行う二重統治制度が採用されました。そしてその結果、異民族王朝の中国化と王族の 中国的貴族化とが不可避的に進み、その結果、この支配機構を支える北族系指導層は貧困化し、政権からの離反が始まるというパターンで北族系王朝そのものと 北族文化の崩壊が不可避的に進行すると いう過程が歴史的に繰り返されたのでした。

飛鳥・奈良朝の場合も、唐の制度の選択的模倣という形での中国化が進んだのは同じなのですが、律令制度の日本への輸入に際しては「科挙の制度」は導入せず 有力氏族による血縁に基づく北族的支配機構を温存、一度は試みられた班田収受の農地管理制度も集約度の極めて高い日本の水田稲作農耕には適さず、その代わ りに不在地主の平安貴族や社寺が所有する荘園が広範に成立した結果、荘園の管理・徴税人としての守護・地頭階層が生まれ、それが武士階級の台頭を許し、律 令 制文化は京都朝廷が直接支配する地域に留まることとなった点では大陸の北族系王朝とは異なり、中国文化の影響は日本独自の部分的なものにとどまりました。

このような条件の下で守護や地頭という中間管理階層の武装集団化が進んだ結果、西日本で最有力となった平家一門は、藤原氏に代わって京都朝廷に強大な影響 力を持つ に至りました。しかし、貴族的土地所有と不可分な関係の中で発生した平家中心の西国の武家文化は、最初から京都政権の貴族文化への傾斜と同化する(=貴 族化)という運命を持っていました。「満月の欠けること知らず」で知られる栄耀栄華を極めた平清盛の時代の平家一門は、大陸の北族に似て、京都朝廷の貴族 文への同化の過程で滅亡への道を辿ったのでした。

[2]北族文化を継承して展開した東国の武家社会文化


これに比較すると、東国の北族系「エミシ」を祖とする地元豪族や開発領主型の武装集団から興った関東武者の場合は、大和朝廷の建設者と同じ北族系の文化の 担い手ではありましたが、西日本の平家一門などとは全く異り、大陸から直接渡来して独自の牧馬畑作農耕文化を築き、それに西日本から伝播してきた水田稲作 文 化を取り込むことで自らの経済基盤の拡大と安定化に成功し、それに支えられた(上掲のしゅう馬の党から発展した)騎馬軍事力を獲得したのでした。

彼等が作り上げた東国の尚武的な武家文化を本論では仮に「イエ文化」と呼んでおきますが、この「イエ文化」は、隋唐時代の中国文化の模倣から出発した奈良 -京都の貴族文化とは全く無縁のもので、北族系の文化が日本の東国で水田米作文化と融合する過程で生まれた独自の複合文化であった点は極めて重要な事実で す。そこでは、各「イエ」の 一族郎党が一丸となって「一所懸命の地」の開拓と管理に当たる直接生産者としての「原イエ」の軍事的家族集団の姿がありました。

「原イエ」の最も顕著な特徴は、耕作農民と支配階層との間に、アジアの他の地域の水田稲作文化に見られるような階級的隔壁、すなわち貴族的支配階級の生産 基盤からの遊離が、この時代の日本の東国のフロンティアー的な環境の下ではほとんど発生しなかったという事実です。武士と農民の間に一体感さへ感じられる 社会階層ピラミッド内部での階層間のインテグレーションが進み、農民が垂直上昇して下級武士となることさへ可能な、新しい浸透型の社会が列島日本に生まれ たのでした。

ここで、関東の武家社会の特徴について注目しておくべき二つの特徴があります。それは、1)黒潮暖流に抱かれて南北に七千キロメートルにわたって伸びる 日本列島では、世界でも例外的な北の高緯度地域まで水田稲作が可能だった事実がまずあげられます。そしてこのことが、亜寒帯の沿海州から満州平野にかけて の寒冷地域から東日本に伝播した北族文化 が、中国長江以南の亜熱帯に近い温暖な地域から伝播した水田稲作文化、大陸部では不可能な形で直接に接触してユニークな融合を遂げることを可能にした結 果、長期にわたる持続性を持つ日本独自の 「イヱ文化」が形成されたという事実です。

これに加えて、2)大陸の塞外の地から直接渡来した彼等の場合は、仏教文化の影響が最初から皆無で、北族が持つ伝統的シャーマニズムが東日本でそのまま生 きつづ け、水田稲作文化が同伴した南方シャーマニズムと融合して、京都朝廷のそれと大きな矛盾のない日本独特の複合シャーマニズムを基礎とする神道文化を受け入 れる社会的、文化的基盤が形成され、それが今日まで生き続 けているという驚くべき事実がそれです。

武家社会の「イヱ文化」はしかし、奈良・平安貴族の位階神話とは異なり、神格化した先祖崇拝を中心とした単純な信仰体系であり、一族の経済基盤である「一 所懸 命の地」を死守するためには血縁関係を超えて、必要であれば養子や嫡子もありうるという、イエ社会に特有な「直系継承線の維持」の原則が生まれまし た。このような武家社会に特有のプラグマティズムは、近隣の高度文明(仏教や儒教)のイデオロギーの影響からも自由でした。祖先崇拝を中心とした、北族的 な「人にして神、神にして人」を信じる北 方シャーマニスムの神観が南方に由来する稲作にまつわる古代原始神道と融合したのです。

元寇という国難を乗り越えた武家政権は、東国武家社会による全国支配を確立して、以後中世を通じて京都貴族政権との共存のあり方を試行錯誤を繰り返して 模索し、徳川期には遂に安定的に持続可能な全国統治のシステ ムの構築に成功します。これに比べて、北魏、突厥、遼、金、元、清といった北族征服王朝の場合は、広大な版図を一定期間武力で支配、統治するのに成功した のですが、彼等の 騎馬民族的な文化伝統は、安定した経済基盤と持続可能な統治システムを欠き、夜空の流星のように美しい光芒を放って東ユーラシアの歴史の舞台から消えて 行ったのでした。

[3]ポスト明治の北族型現実外交と欧米文化摂取方法の特徴


これは極めて北族的なやり方なのですが、匈奴、北魏、遼、金といった大陸の騎馬民族国家は、統治機構の中枢に人種と文化の異なる外国の人材を積極的に登用 しました。サ ムライの国日本も、この例にもれず、明治維新後は、「脱亜入欧」と「文明開化」の外交姿勢を示しています。近代化が進んだポスト明治の日本社会にも脈々と して受け継がれてき たこの北族的文化の最大の特徴は、科挙や班田収受の制度を否定した奈良朝の日本のように、外来文化の受け入れには、プラグマティックな自己利益の尺度で取 捨選択の判断をし、必要な機能部分だけを取り出して積極的に利用するが、それを支えている価値と文化的伝統は切り捨て、相対化してしまうというものです。

それは、農耕文明との 対比で、騎馬民族の伝統を引く北族の文化に特有な現実主義でありました。北族的な支配文化の伝統を持地ち続けた日本は、明治以後も 「人にして神、神にして人の現人神」である万系一世の天皇を戴く立憲君主国となりました。そして、明治維新の革新政策の担い手となり、急速な近代化(=西 欧化) を遂行したのは、農家や商家の出身者ではなく、幕末の動乱期を生き抜いた白面の青年武士たちでありました。彼らは、裃(かみしも)を洋服に着替えて刀を 捨て、北族的現実主義に徹した「現実主義改革者」となったので した。この意味では、明治の王政復古の意義とは、北族的文化を共有する朝廷側の文化と武家社会の文化が、遂に「共存」から「融合」の段階に入ったの だと理解してもよいのではないでしょうか。

輸入した外国文化に内在する価値を相対化するという北族的な日本文化の特徴は、奈良時代の唐文化の輸入に始まって、江戸時代の洋(蘭)学、明治維新後の西 欧 文明、それに、第二次大戦後のアメリカ型「民主主義」の受容を通じて一貫して見られます。八百万(やおよろず)の神が今日でも存在する日本 では、「欧米諸国との価値の共有」が声高に謳い上げられていますが、共有しているはずの価値自身がすでに相対化されていて、「共有」とは、日本にとっては 「お付き合い」のレベルの問題でしかないのだという事実を、外国はおろか、日本でも知る人は少なく、知っていてもそれを口にする人はそういません。

昨今の日本では、「平和憲法」の改正と、靖国問題に見られるような「伝統的価値」の再評価と「国を愛する心」の復活が叫ばれています。そしてここには、恐 ろしい ことに確信犯的な心情がはっきり存在しているのが見逃せません。それは理論ではなく「心情の問題」なのです。日本文化が北族的性格を今日でもその根底に 持っていることをこれは象徴 的に示しています。日本の宰相は、「国家と家族のために死んでゆかれた人達に哀悼を捧げる」という表現をとりますが、アメリカの大統領の場合は、「自由と 民主主 義のために命を捧げた人たち....」という表現になります。そこでは、日本人の言う「国家」と「家族」とは一体何なのかこそがいま問われています。

[4] 北族型帝国主義の満州支配と 中国侵略

19世紀末の東アジア、特に清国を舞台にして続いていた欧米帝国主義列強の相次ぐ侵略行為が加速するという国際環境の下で、日本は自らも中国と同様の運命 に陥る危機を感じ、自らが持つ北族的な中原支配の本能を呼び覚まされました。その結果、日本は欧米列強に伍して中国に対して日本独自の帝国主義的干渉を行 う目 的で北族の故地である満州での権益獲得を画策したのでした。

日清・日露の二つの運命的な戦争で戦勝国となった日本は、李朝朝鮮の併合により南満州への進出を果たすことで大陸の足場を獲得し、中国侵略への動きを開始 したので した。そしてこの場合、日本帝国主義の動きが欧米のそれと決定的に異なっていたのは、その特異な北族的イデオロギーと行動様式でした。

李朝朝鮮での例に明らかなように、日本は独特のシャーマニズム信仰に基づく国家神道の政治文化を、日韓同祖論を唱えて併合した朝鮮に強制し、清王朝のラス トエンぺラーである愛新覚羅溥儀(宣統帝)を擁立して傀儡北族国家満州国を建国(1932)し、五族協和の王道政治の名の下に満州を関東軍の支配下に置 き、中原侵入への足場を固めたのでした。

ここで注目すべき事実は、満州事変後間もない昭和10年(1935)に起こった天皇機関説事件の結果、いわゆる「国体明徴」運動が広がり、満州事変以後の 一連の帝国主義的侵略行為は、北族的文化に固有なイデオロギーによって正当化されたという事実です。すなわち、この戦争は「人にして神、神にして人」 である現人神の天皇陛下の名において遂行される「聖戦」であり、日本の大陸進出は神の御旨を体現して「八紘一宇」の理念を実現する行為だとされ、 帝国主義時代の欧国際法の則を超えた歴史的正当性を主張したのでした。

日本のこのような北族型帝国主義の主張は、「キリスト教文明の恩恵」を、強制的にとはいえ、相手に与るという「恩恵供与型イデオロギー」を旗印とし、帝国 主義時代の騎士的国際法の遵守を形式的ではあれ相互に要求した欧米列強の側からすれば、受け入れがたいルール違反の行為と受け止められらた可能性は大いに あり ます。自ら「脱亜入欧」を唱え、帝国主義列強に伍して大陸進出を行動に移した当時の日本は、このような価値観の相違と、それが不可避的に生み出す「文明の 衝突」には気づかなかった可能性が十分あります。

当時満州に常駐していた日本軍は「関東軍」という名のサムライ軍団で、その中核的軍事力の徒歩戦闘部隊を構成したのは、日本各地の米作農家の次男、三男が 中心であり、日本刀を佩いた騎馬の将校たちが彼等の指揮に当たっていました。これは、日本の武家社会の歴史の中で、騎馬武者に随った徒歩戦闘部隊であ る「足軽(foot soldiers)」たちが、主として領内の米作農民の子弟から抜擢されていたのに酷似し、確信犯的な北族的戦闘集団を形成していました。南満州鉄道を支 配の下に置いた日本の関東軍が当時唱えた「北進論」には、異民族王朝建設を志向する深層心理に駆られた日本の北族的本能が垣間見えます。そして、犬飼毅首 相とその周辺の、天皇を取り巻く親英米和平論者たちが5.15事件の凶弾に倒れた後は、関東軍の独走と、大陸浪人的(=北族的)右翼政治・宗教思想運動の 暴走が始まり、中国侵略戦争への突入はもはや不可避となって行ったのでした。

[5] 「脱亜入欧」の思想と北族型 帝国主義

「神の国」日本の複合シャーマニズム文化は、異質で多様な神々(宗教)に対する異常なほどファジーな寛容性(=複合相対的価値体系)を示し、キリスト教教 会での結婚式、仏教の葬儀、お盆の先祖の墓参り、新年の神社参拝といった異文化が日本の日常生活の中で何の矛盾もなく共存しているという、外国人には一見 理解が 困難な状況を、明治以降、特に第二次世界大戦以後に生み出しています。これは、日本の北族型複合文化が、価値が相対化されたとは言え、西欧近代文明と大き な摩擦なしに共存し得たと いう歴史的事実によく対応しています。

この点では、第二次世界大戦後の日本も例外ではありません。外来文化、すなわち、極めて個人主義的性格の強いアメリカ型民主主義や人権擁護の制度的装 置は、法制と組織という意味では立派に戦後の日本に移植されました。そして、21世紀初頭の日本人のほとんどは、「自他共に認める民主主義の経済大国日 本」と、「西側陣営の一員」というキャッチフレーズを単純に信じていますが、これは明治日本の「文明開化」や、大正時代の「脱亜入欧」現象の現代版ではな いという証明は果たしてあるのでしょうか。

外国から借用したすべての文化価値を相対化する日本の北族的伝統は、今日も社会の底流として流れ続けているのです。日本人の持つ北族的DNAは、遠く ない将来にその鎌首を再び持ち上げる可能性があるのでは、と心配するのは私だけでしょうか。北朝鮮をめぐる拉致問題、韓国との間の竹島問題、中国との尖 閣諸島問題、これに加えて今や歴史問題や靖国問題と、起爆剤には事欠かない昨今の状況があります。「自他共に認める民主主義経済大国日本」は、もう再び 北族の牙をむかないという保障はあるのでしょうか。

野坂参三や野呂栄太郎といった大正から昭和にかけての日本の左翼運動家や理想主義者たちは、当時の日本社会が未だに「前近代的」で「封建制の残滓」を抱え ているといった表現で市民革命としての明治維新の不徹底さを批判し、維新以後の日本の近代社会が欧米諸国とは似て非で、「遅れて劣った存在」だという趣旨 の指摘を繰り返しました。自国の歴史に関するこのような自虐的な考えは、福沢諭吉の「脱亜入欧」思想の根底にある劣等感の裏返しの表現にしか過ぎず、 遠い昔、古代中国の優越文明に対して塞外の北族が共有していた劣等感と同質のものであることが歴然と見て取れます。

これは明らかに明治以降の日本の歴史学者が、全体の流れとしては、西欧史学、特にマルクス主義史学に著しく傾倒し、ユダヤ・キリスト教文明が生んだ市民 革命を近代化への避けて通れない条件とするこの歴史学の価値観と方法論に、無批判に盲従した結果であるとも言えるでしょう。

しかし、グローバル化が進む21世紀初頭の世界では、戦後のわが国や韓国の例、なかんずく、中国が近年「社会主義市場経済」の旗印の下で遂げつつある目 覚しい発展からしても、へーゲリアンな発展段階説に依拠する歴史理解の方法論を東アジア地域にそのまま当てはめることの理論的破綻はすでに明らかである ことは認めざるを得ないでしょう。東アジア全域で共有できる歴史の方法論と、新しい価値観の創造と共有が不可欠です。

[6] 「島国」日本の常識はなぜ世界の非常識なのか


北族国家の短命の歴史とは異なり、日本では、まるで逆方向に進むタイムマシーンに乗ったように、今日まで北族系文化の伝統が生き続けています。しかし不思 議なことに、日本人は、自国を「西側の一国(member of the West)」と呼んで同じ価値を共有する先進国だと宣言しています。しかし、先進諸国からは、しばしば西欧とは異質な文化を持つ「サムライの国日本」と呼 ばれ、鎧兜のサムライ姿の日本のビジネスマンが世界に進出する「勇姿」が海外の一流雑誌の表紙を飾ってきたことの意味に多くの日本人は気がついていませ ん。

我々日本人にはこの他にも外国との意識のギャップがあります。海外で日本人がしばしば聞かれる質問の一つは「あなたの宗教は何ですか」ですが、大抵の日本 人は返事に戸迷います。「仏教です」、「神道です」とか、即座に割り切った答などなかなかできません。そして、返答に窮した日本人はしばしば「私には宗教 ありません」と答えてしまい、欧米人を驚かせます。彼等にとっては、それは多くの場合「無神論の共産主義者」か、それでなければ「悪魔(サターン)か何 か」だと言っているように聞こえるからです。

現代に生きる日本人の間では、外国人、特に文明は絶えず進化すると考える欧米人が「原始宗教」と呼ぶシャーマニズムが現代日本に固有の宗教であると言い切 り、 相手に納得のゆく説明ができる人は皆無に近いでしょう。この意味では、仏教を始め複数の異なった宗教と文化の価値を相対化して受け容れる日本人の 精神構造は、一神教の西欧にとっては極めてファジーな存在に映るのは否定できません。その故にこそ、日本人にとってはこの問題の解明は歴史問題の解決には 避けて通れない関門の一つなのです。

昔から日本には「神道」という名の土着の民間宗教があります。それは大まかに言って、水田稲作文化と共に渡来した南方シャーマニズムと、北族的シャーマ ニズムが渾然一体化する過程で生まれたものです。そして、世界有数の経済大国となった今日に至るまで、日本では、人類最古の宗教文化の伝統が継承されてい て、それは大嘗祭のような皇室にとって重要な年中行事から全国各地の村の鎮守さまのお祭りや、氏神さま詣でまで、一貫した国民的な宗教行事として歴然と存 続しています。

日本の歴史学界は、このような北族的色彩の強い価値システムが堅固に社会構造の中に組み込まれた日本の文化からなぜ目をそらし続けてきたのでしょう。戦後 の日本 史教科書問題には対立する二つの流れがあります。その一つは、戦後の日本が受容した一連の「占領改革」と「民主化」の申し子である「民主・平和憲法史 観」とでも呼ぶべき流れであり、いま一つは、近年「歴史問題」論争の渦中で復古的「皇国史観」だと批判されている「新しい歴史教科書」に代表される流れ です。

「民主・平和憲法史観」は、敗戦後の日本が連合軍側から受容を迫られた結果生まれたのでしたが、当時の一連の民主化改革を下支えしていた民主主義的価値そ のものは、奈良時代の日本と同じく、戦後の日本でも「相対化」されました。これは、いわゆる55年体制の政界の舞台裏で半ば公然と行われていた保守、革新 両政党間の談合の実態を見ても明らかです。これに対して、注目すべきなのは、後者の「皇国史観」の場合は「相対化」が全く見られず、確信犯的な強い情緒的 コミットメントがその底に生きつづけているという事実です。

北一輝や頭山満といった、二つの世界大戦を経験した20世紀前半の著名な右翼政治の運動家たちだけではなく、多くの普通の日本人の心の底にも、この種の情 緒 的愛国意識が、明治以来今日に至るまで、特に第二次大戦以降は伏流水のように生き続けていて、今また、日本人が持つ北族のDNAが「靖国問題」や「歴史問 題」の発生を契機にして鎌首を持ち上げ始めているのではないでしょうか。

それにも拘わらず、東アジアの近隣諸国以外の、欧米を含む世界の諸外国の間では、戦後の日本は平和憲法をしっかりと守る民主主義国家だという漠然とした印 象が持ち続けられています。再度の「文明の衝突」はいかにしても避けねばなりません。


結論とすすめ

21世紀初頭の今日、日本人が行うべきことは、まず自分の心の底に未だに根強く残っているこの北族的劣等感の本質を客観的に分析し、自らをこの歴史的呪縛 から解放することです。これは、ある意味では聖徳太子の昔に始まり、以来日本人のDNAの中に刻印され続けてきたのかも知れませんが、今日の日本は、客 観的にはどう見ても世界の主要大国の一つであり、劣等感を正当化する理由はどう見ても存在しないのです。問題は、すべての外来文化を相対化する日本人の 生活文化が生む異文化間の「相互誤解」や「距離感」が生み出す屈折した心理的問題なのではないでしょうか。

それでは、このような事実の正しい認識の上に立って、われわれ日本人は一体どのように自国の歴史観を再構築して、中国、韓国を始めとする東アジア諸国民と の新しい平和共存の枠組みを作り出してゆけるのでしょう。それは、ODA型の援助のばら撒きでもなければ、国境や排他的経済水域にまつわる紛争といっ た、国際間の比較的些細な問題に目くじらを立てて興奮し、危機的状況を作り出すことでは決してありません。

いや、それとは逆に、我々のなすべきことは、塞外の北族文化が今日まで継承されている唯一の地域である朝鮮半島と日本列島の住民に課せられた歴史的責務 を明確にして、共同でこの困難な作業に立ち向かうことです。まず最初に必要なのは、いろいろな点で自主的に声を上げるべき立場にある日本が中心となり、 韓国との緊密な協力の下に、ユーラシア東端の万里の長城以北の地域の多様な北方民族の興亡の歴史を、特に中国の歴史との関わりを重視しながら包括的に再検 討し、 東アジア地域全体の視点からこの地域の総合的な歴史を編纂する作業ではないでしょうか。それは、かっての「五族協和」思想の完全な批判と、真の東アジアの 域内協力機構の構築への前向きの第一歩です。

しかしツングース諸族を中心とするこれらの人々には自らの書き文字がなく、北族王朝はすべて短命で終わり、自らの政治的、文化的主体性を維持しながらバラ ンスよく編纂され、後世に残された北族史の資料というものは極めて少なく、不完全な上、現実には中国側の文献を主要な研究資料とせざるを得ないという状況 があり ます。

この歴史資料の不足を補うためには、考古学、民族学、人類学をはじめ、多様な関連する諸科学分野での共同研究が必須となります。そして、この作業を計画、 実施するために必要な総合能力という点で考えると、今日の東アジアでは日本が最初に右手をあげる責任があるでしょう。

黒潮の本流が洗い、「椰子の実」の流れ着く太平洋岸の日本ではなく、日本海周辺を時計と逆廻りにロシアの沿海州沿岸から朝鮮半島の東岸に沿って流れるリマ ン寒流と対馬暖流が北東アジアから日本海経由で日本列島各地に運んだ人と文化の流れを解明するという、資料が極めて少ない困難な作業が日本人にとっての最 初の段階の作業となりますが、この難解な課題を克服しない限り、日本および日本人の北族的側面の解明と大陸の北族文化との本源的な関係は永久にブラック ボックスの中にとどまり、日本人の持つ北族的劣等感の克服は困難であり続けるでしょう。

絶えず中原の豊で進んだ農耕文明にあこがれ、これを犯してきた北族の歴史の最後の、そして最強の生き残り集団としてのわれわれ日本人には、数千年にわ たったって続いた北族による中国侵略と破壊の歴史に永遠の終止符を打ち、それを高らかに宣言する歴史的責任があります。

それは、「明治以降の帝国主義的前非を認めての謝罪」に留まっている限り、絶対に果たすことは出来ない、重い長い歴史的過去の責任なのです。何故ならば、 我々日本人の心の中に は、「それで は、今日口を拭っている西欧諸国が過去に犯した帝国主義的侵略行為の責任は一体誰がとるのだ」という無言の反発と「北族的DNA」がわだかまり続 けているからです。「過去など忘れて、未来志向で行こう」という安易な処方箋の繰り返しも同じで、決して問題の抜本的解決にはつながりません。これは、朝 鮮民族がかっての高句麗時代の版図に由来する中国との国境線に関する歴史的な意見の相違とも関連しています。

何より必要なのは、まず日本が他国に先立ってこの作業に着手することです。そして、この作業の結果生み出されるに違いない「東アジアの中の日本史」は、す で今日始まっている東アジアの経済的統合のビジョンによく対応して、いわゆる日本人の言う「国史」の枠組みを超えて、東アジアの多様な文化の創造的融合 と、より普遍性のある新しい東アジア史の形成を可能にする枠組みを提供してくれるでしょう。それは、複雑な文化的多様性を許容するファジーな能力を持つ枠 組と なるはずです。

中国と韓国と日本という東アジアの主要3国が、太古からこの地域に生きた諸民族の歴史的遺産をこのような形で再確認し、継承し共有することが出来てこそ、 持続的 で、更なる 発展を約束する国際協力の場が生まれるのです。このような新しい国際関係の構築にはしかし、過去の恩讐を超えた、より高度の普遍的な道徳基準の創出と共有 が不可避となります。それが出来れば、日本の帝国主義の総括に止まらず、アジアで欧米列強の帝国主義が犯した侵略行為に対するアジアによる前向きの総括と 和解の提案を西側にす ることも可能 になるでしょう。われわれは、今こそ手を取り合って21世紀の新しい東アジア文化を創造しようではありませんか。

おわり  (mid-afternoon, August 31, 2006)

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