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Copyright 2006 by OKAMOTO INTERNATIONAL AFFAIRS RESEARCH INSTITUTE: Preferred Citation: Okamoto's History Papers and Related Reviews and Comments (June/July, 2006)

                                                          (English version is not available at this time)

                        私説「北族日本史(北のルーツ)」のあらずじ

                                                                            Yutaka Okamoto
                                                                            July 2009


●リマン海流->対馬海流という日本海周辺部を、ロシアの沿海州と朝鮮半島の海岸沿いに左巻きに流れる海流に乗ってのツングース系諸族の日本列島の 東海岸一帯の地域への平和的渡来に関しては、それを直接に証明する記録は皆無に近いが、その蓋然性は疑えないことを示す傍証は確実に存在している。自らの 書き文字を持たないこれらの北族の足跡は、日本史の大きなブラックボックスである。
明治維新以来、西洋歴史学の方法論をそのまま踏襲した日本の歴史学界では、資料が無いにひとしい分野での研究から生まれた論考は、最初から「異端」と考え られ、「歴史学」の論文として学界の認知は得られないというのが常識となり、日本の歴史とは、古代から文献や資料が豊富に手に入る奈良・京都中心の大和政 権による全国支配の歴史、いわゆる「ヤマト史観」を基点とする「国史」として語られてきたという不幸な事情がこのブラックボックスを生んだと言える。

●朝鮮半島経由の渡来者の場合は、何等かの程度の文書による記録が奈良・平安朝の時代から残っているのが普通だが、日本海経由の場合は、渤海国との交流に 関する記録以外には、特異な漂流や漂着に関する説話以外には資料は皆無に近い。しかし、おそらく中国の後漢滅亡後の三国時代(230−280)の動乱に始 まり五胡十六国の乱(304-439北魏華北統一)に伴い塞外地域でも政治勢力間の暴乱が打ち続いた3世紀から6−7世紀にかけての時期が最も重要で注目 すべき期間だと考えられる。
四世紀以降は華北統一に向けた鮮卑諸族による各地で闘争が続き、西からは突厥、南満州から朝鮮半島にかけては拡張を続ける高句麗や百済、新羅が北族系王国 としての版図を構築し鼎立していたので、戦乱を避けより温暖な地域を求めた南満州から沿海州西南の平野部のツングース系諸族は、リマン寒流->沿海 州寒流->北鮮寒流->対馬暖流対という天与の海路のコンベヤーを利用して日本列島東北部の各地に波動的に移住を繰り返すこととなったという のが、本論考の最初の作業仮説だが、最も重要な彼らの波状移動期がこの3世紀から6-7世紀にかけての時期であったと考えられる。
これに加えて、4世紀に始まり9世紀まで続いた地球規模での気候の寒冷化は、大興安嶺の南や沿海州のアムール河やウスリ河流域で粗放農業と狩猟採取をセッ トにしていたツングース系諸族の生活を困難なものとして彼等の更なる南下を促し、当時全盛の高句麗の版図内にあった沿海州寄りの南満州地域の平野部に出て すでに牧馬畑作農耕という、より高い文化融合の段階に入っていたツングース系諸族に対しても南への移動への圧力となった。
この時期に日本海沿岸各地に海路移住を繰り返した非軍事的小集団は、シベリアの故地での深い竪穴住居と狩猟と初期粗放雑穀農耕の生活をほとんどそのまま 持ち込んだ者(粛慎、ゆう婁、匆吉タイプ)から、靺鞨族や、更に農耕に踏み込んだ女真族が、扶余や高句麗南満州の複合文化である、中原の青銅器文化と西に 広がるステップを経由した騎馬民族文化との習合の過程で生み出された特有の育馬畑作文化へすでに移行する段階にあった先進部族までを含む多様な人たち だったはずである。(詳細については、拙著「リマン海流ルート仮説に関するメモ」参照)

●この時代の日本列島の歴史は、奈良朝から平安朝の時代の政治権力の側から見た記録が基本であるので、その中では東日本から北日本は草深き「あずま」の国 であり、そこでの住民は「エミシ」という漠然とした集合差別表現で呼ばれる未開人とされていたのだが、彼等の間には、縄文期以来の土着アイヌ族をはじめと して、大陸から移住してきて自らの土着文化を拓いた、ツングース系種族を中心とする多様な集団が共存していたというのがこの作業仮説の前提となる。
日本側の歴史資料の中での有力な傍証として挙げられるのが、1)7世紀の日本書記や続日本紀に見えるエミシ征伐の遠征記録であり、エミシ側の抵抗勢力の中 心と見られる集団との接触記録にある人名や地名が、アイヌ語ではなく、大陸のツングース系古語であること(上掲リマン海流ルート参照)、2)8世紀から9 世紀初頭の朝廷側の古代エミシに関する記録に散見される騎馬戦によるエミシの強固な抵抗や、鉄製農具と馬匹との交換による朝廷側の出先機関の奥州、東北地 域のエミシとの交易記録(アイヌと古代日本ー江上)は、当時の東国各地には独自の高度の育馬畑作農耕文化がすでに広範に存在していたという可能性を示唆し ているという事実である。
例えば、「エミシとの戦いにおいては、普通の弓ではなくて機械の弓を以って大量に敵を倒す方法を考えないと勝てぬ。彼らは天性、弓馬に巧みな民族であり、 政府側の軍隊は、十人かかっても一人のエミシに勝つこともできない」と、承和四年(837)の政府側の文書は述べている。(アイヌと古代日本、高橋pp。 39)

●古代エミシの中でも、自らの育馬畑作文化と水田稲作文化との融合に成功して経済基盤が強化された結果、強力な騎馬軍団を手にした東国各地の部族集団は、 朝廷の遠征軍に対する抵抗や、盗賊や部族間の抗争を重ねる過程で、地元豪族や開発地主を基盤とする東国特有の統治システムを作り上げた。個々の家計と生産 単位は「イエ」に一体化され、一族郎党によって管理される「棟梁制関東武家社会」のイエの原型(原イエ)はこの時期に発生した。それは、日本列島の東部で こそ成しえた、日本型水田稲作と日本型牧馬畑作という南北の非常に異なった二つの文化の融合という、アジアの他の地域には見られない歴史的事例であり、そ れは東アジアの一角に生まれた新しい地域文化でもあった。

●「東国」と呼ばれる当時の東日本の僻地に生まれたこの「イエ社会」と私が呼ぶ土着文化は、その後も急速な自己増殖を遂げた。その結果、平安朝(794− 1185)の後期の11世紀から12世紀にかけて不思議なことが起こっている。東日本以北での旧来のエミシの呼称が、この頃から蝦夷(エゾ)に変わり、無 畜狩猟・採取文化で知られるアイヌ文化だけがエゾとして本州の最北端と北海道に残り、上述の騎馬民族的な古代エミシの主体は、俘囚安部一族(前九年の役 1051-1062)と奥州藤原氏の滅亡(頼朝奥州征伐1189)以後歴史の記録から忽然としてその姿を消したのである。そして、この背後にこそ日本の歴 史をゆるがす中世史の開幕の秘密が隠されていたのだ。
4-5世紀から9世紀にかけて地球的規模で続いた寒冷化が平安時代に入ると終を告げ、温暖な気候が日本列島にももどり、水田稲作が関東以北で再び可能と なった。この結果、牧馬畑作農耕文化と水田稲作文化との融合が東国の騎馬武装集団を抱える豪族や開発領主間に広がり、彼らの経済基盤を飛躍的に拡大した。 大幅に向上した人口扶養能力は、いわゆる関東武者(後の御家人集団)を中核とする社会の基盤を一層強固で持続可能なものとし、一族郎党の間の主従関係を厳 しく律する独自の「イエ社会」に共通の価値基準である「武家諸法度」が生み出された。

●一族郎党からなる家族集団を原単位とする東国日本のイエ社会は、東アジア型の個人主義の萌芽を内包する集団主義社会であった。この意味では、西欧中世の 出現と、宗教改革を契機に始まった西欧近代の幕開けにゲルマンの果たした歴史的役割との相似性がある程度認められる。
しかし、洋の東西ではやはり基本的な相違があり、その一つがまさに、ゲルマンには無縁の、日本に生まれた上述の「イエ社会」の文化である。西ヨーロッパの 粗放天水畑作農耕とは異なり、日本の場合は、アジアでも集約度の極めて高い水田稲作文化が要求した地域社会内での緊密な共同作業と、運命共同体的な集団意 識が生み出した「イエ社会」の集団主義的価値構造は、日本では個人主義の萌芽を覆い隠す強固な持続性を持ち続けたた。
個人主義的文化要素は、日本社会では西欧とは異なった自己実現の様式を持った。それは、茶道の利休、武士道の武蔵、幕末の志士達といった、強烈な個性に支 えられた個人が作り出したアングラ文化という形をとり、集団主義的な日本の中世社会の伏流水としてしか存続し得なかったのだ。

●さて、突然(京都政権側にとっては)北条泰時が騎馬大軍団を率いて西進し、平家が守護する京都のアンシャンレジームを一挙に倒した承久の変(1221) は、極めて重要な歴史的意義を持つ。新しいイエ型経営管理組織を持った東国武家社会の御家人的合議制で運営される鎌倉幕府の下に東日本各地に発生していた 武家集団が結集しての勝利の結果、京都の公家文化を支える律令体制は遂にその限界を露呈した。
それとは全く異質の、1232に制定された御成敗式目=貞永式目と呼ばれる日本独自の武家社会の慣習法が、律令制度に代わる日本固有の社会規範として出現 し、これに基づいた武家による統治体制が日本の事実上の支配体制となり、以後急速に式目を基本とする社会秩序の全国的な制度化が進んだのだった。

11世紀から12世紀にかけての日本社会で起こった最も重要な政治的変化は、東国騎馬武者を中心 とする武家社会の勃興であるが、いわゆる「北族」を祖と し、日本海経由で東国に移住した諸族(靺鞨、女真系中心か?)は、シベリアのステップを経由して北廻りで東日本に伝わった一連の(西日本にはない)農作物 を特徴とする東国独自の育馬畑作文化を創造したが、更にこれを中国の江南地域から伝来した水田稲作文化と主体的に融合することによって、日本独自の複合文 化である東国の武家社会を生み出したのだった。
しかし彼らは、朝鮮半島経由で北九州から東進して大和政権を樹立した北族「天孫族」と本質的には同じ出自の人達で、同じ大陸的文化背景を持ち、中世以降の 日本社会と文化の形成に、京都政権との共生システムの構築に決定的に重要な役割を果たした。彼らが構築した多重複合文化は、以後現代に至るまで、日本社会 の基軸構造であり続けたという事実の歴史的意義は、今日改めて認識されねばならないだろう。
前九年の役(1051)の阿部氏や、後三年の役(1083)の藤原氏の場合は、京都政権の融和・同化政策に対する最後の反抗勢力と見てよく、これを契機と して、大陸出自の「エミシ」は消滅し、かっての津軽エミシが「エゾ=蝦夷」という狭義のアイヌ種族を指すこととなったのである。

●鎌倉幕府の成立後間もなく更に運命的な事件が起こる。文永の役(1274)と弘安の役(1281)の二度にわたった元連合軍の来寇がそれである。そし て、幕府側の軍勢が元連合軍を水際で防御、撃退することに成功したのは、いわゆる「神風=台風」による来寇船団の破壊があったとはいえ、鎌倉幕府の権威と その幕下の諸国軍団の総合軍事力が蒙古軍を夜間に海上の船団に退避させたという事実なしには到底考えられない。鎌倉幕府とその全国支配体勢は、二度の北九 州遠征が強いた負担でその基盤がゆるいだという負の面が言われるが、全国を支配する武家政権の要である幕府の権威は国難の克服という試練を経て確立された のも事実である。

●この後の日本は、短命に終わった建武新政期を経て長い室町時代を迎えるが、その初期が南北朝時代(1335-1392北朝統一安定期に入る)であり、後 期が戦国時代(応仁の乱1467-1573)となる。ある意味で前者は、武家政権と京都朝廷との間での持続可能な共存関係が模索された時期であり、後者 は、完全に独立した軍事・政治・経済単位にまで成長した戦国大名(領国大名)の間での全国制覇と統一政権樹立に向けての抗争の時代となった。
そして、この過程で今一度「イエ社会」型集団主義の崩壊の可能性が織田信長の全国統一政権樹立への過程で生じたのだったが、桶狭間事件は、織豊時代が持っ た価値転換の可能性を封じ、「イエ社会」の原理の倣い拡大を志向する閉鎖的でスタティックな江戸時代の開幕への道を開いたのだった。

●安土桃山時代から江戸時代に至る武家社会の全国統一の過程で見逃せないのは、倣い拡大イエ組織としての戦国大名の領国経営(=倣い拡大家計)は、ほぼ西 欧の絶対主義国家のそれに対比できる程度までの産業化(=殖産興業)の過程に入っていたという事実だ。過去の日本史学界では、明治日本を西欧の絶対主義国 家に対比する仮説が主流を占めたが、私はむしろ戦国時代から江戸時代の日本を、「閉ざされたアジア型絶対主義国家」と考えたい。
これは、本論の第二の作業仮説なのだが、ここでは江戸幕府が構築したいわゆる「幕藩体制」とは一体何であったろうかが問われることになる。いわゆる戦後の 日本史研究の主流は、マルクス主義歴史学の方法論に倣ってこの時代を「最も進んだ段階の封建社会」だと考えてきたのだが、これは西洋歴史学の方法論の不適 当な適用の例であり、その結果生まれたアジアの歴史的現実の誤認と歪曲だと私は言いたい。これは、今日の中国が資本主義社会であるのかどうか、という不毛 な議論の核心に触れる問題であり、この問題はすでにこの時点で明示的に提起されていたのだ。

振り返ってこの時期の日本を見ると、幕藩体制下の諸藩はすでに事実上の独立国であり、徳川親藩に よる連合政権を中核とする東アジア型絶対主義連邦制国家 であったと言ってもよいのではなかろうか。各地の特産品の生産や、幾つかの商品市場、特に全国的規模の供給と需要という条件が成立していたジャポニカ種の 米穀を対象とする大阪道島米市場の形成や、松前藩の幕府特許の独占的な稲作肥料のニシン油粕の生産などの場合、資本主義的市場経済制度の萌芽が明らかに見 られ、今日言われる「独裁開発国家」的な諸特徴は江戸時代後期の日本にすでに顕著に現れていたのは否定できない。
しかし、ポルトガル、スペインに始まった西欧帝国主義列強、そしてオランダの進出に次いで、イギリス、ロシア、アメリカの東アジアへの軍事力を伴った植民 地主義的 覇権の拡大兆候は、江戸時代の日本に厳重な鎖国政策を強制し、この時代の日本の独裁開発国家の展開を、外界から遮断された内向きのものとしてしまったので はないのか。

徳川幕藩体制の安定的持続性は、新しい次元での幕府と京都朝廷(=天皇家の伝統的権威)との制度 的共存の枠組みの再構築によって担保された。いわゆる 「象徴天皇制」はこの時期にすでにその原型が出来上がったと言ってもよい。
日本列島内部で生成し、東アジアでの認知度の低い武家社会にとっては、中国文明を継承する北族的辺境国家としての地位を東アジアで中国から認知されていた 大和王朝が持つていた政治的レジティマシーは、徳川幕府が是非とも必要とした統治シンボルであり、京都朝廷は、あるがままの姿でそれを提供できる立場に あったのだった。

●このような歴史的背景の下に遂行された明治維新と、それ以後の開かれた日本の欧米型近代化は、西欧のいわゆる近代市民革命を必要とはせず、江戸幕藩体制 下の幕府の管理システムが、「人にして神」の天皇を戴く明治中央政府の官僚機構に変身し、諸藩は解体され、中央に隷属する地方行政単位の「県」となった代 わりに、旧藩主たちは東京在住の華族階級の地位を与えられ、三井、三菱、住友といった新興財閥グループが中央の官僚機構に密着した、日本独特の独裁資本主 義企業グループ(=新時代の倣い拡大イエ型大名領国=大藩)として、それぞれ幕藩体制に似た機能を継承することで、新しいアジア的近代が開幕したのだった が、この意味では、近代日本の国際的展開の青写真は明治日本にとってはすでに徳川時代の胎内に準備されていたのだ。

●ここで再度注目すべきなのは、「イエ」型経営管理組織の高度な柔軟性と環境適応力である。明治日本が当時の帝国主義列強に伍して新興アジア国家として登 場するのを可能にしたのは、まさに今日の中国のケ小平型経済モデルに似て、この「イエ」型資本主義経営組織モデルが欧米の近代市民社会の再生産コストとに 対して持った比較的優位と卓越した競争力であった。
第二次大戦後は、明治憲法が廃棄され、財閥の解体が進み、米国主導の新憲法下で旧憲法の「イエ」の概念が完全に否定され、個人としての市民が社会の構成原 単位となったが、文化としての「イエ」の価値伝統は、戦後の日本の企業組織の中で新しい生命を与えられ、日本的経営の組織原理の支柱として生き残ることと なる。

●「日本型経営」と言う名で一時は世界にその名を馳せ、戦後の復興と、その後の目覚しい経済発展に大きく寄与したこの企業経営モデルの特徴は、「三種の神 器」と呼ばれた終身雇用、年功序列、企業内組合の三要素からなる戦後日本の「イエ」型経営管理システムであった。
個別企業経営のための総合ツールであるこのモデルに関しては、戦後日本の産業界も、日本に注目する諸外国も十分に注意を払わずにきたいま一つの特徴があ る。それは、日本社会での意思決定方法として歴史と共に古い「和」と「談合」の文化である。聖徳太子の17条憲法の「和を持って尊しとなす」や、明治政府 が発布した五箇条の御誓文の「万機公論に決すべし」という文言が示す日本の歴史に一貫して流れるこの思決定に関わる文化とは一体何を意味するのかが、再び 真剣に問われなければならない。
この場合の「万機」とは国家にとって重要なすべての事項という意味だろう。しかし、その次の「公論」とは決して「public opiniion」ではない。それは、明治藩閥政府のリーダー達(列侯)の間での「談合型」合議制のことである。談合も合議も、日本の辞書では 「consultation」或いは「conference」と訳されている。そして、日本人にとっての「和」とは、このような談合と合議の結果生まれた 意思決定によるガバナンスを意味するのだ。
「談合」という言葉には、共謀といった言葉が持つ不正や、秘密裏に行われて表に出せない不正な行為、といった意味は全くない。それが今日独占禁止法という 名のアメリカ直輸入の法律を適用して血祭りにあげ、米国人の言う「犬が犬を食う(=dong-eating-dog)」激しい弱肉強食の市場競争社会に変 えよというのは、日本の歴史と文化、いや、日本人の持つ価値意識とは明らかに整合性がなく、明日へのビジョンの貧困だと言わざるを得ない。

今日、政府機関や企業間でしばしば問題として取りあげられる「談合」は社会悪として大きく報道さ れ、独占禁止法の更なる徹底的適用が絶対的善であるかの ごとく訴追が進められているが、今日我々が果たすべき歴史的責務は、むしろこの「談合」や「合議」の慣行自身の透明化を進め、より幅の広い参加型のモデル に創り変える(re-invent)努力なのではないのか。
この努力を通じてこそ、日本は東アジア独自の21世紀型の民主的な意思決定モデルの創造ができるのだと私は主張したい。このような努力を怠る場合、米国型 の個人主義文化の存在しない日本では、グローバル化が進む国際環境下で「舵取り不在の日本丸」となって漂流する大きな不安要因を将来に残す可能性があると 言わざるを得ない。

July 15, 2006



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