山村過疎化防止と村おこしと伝統文化の継承を一つにした国際支援プロジェクト
− 現地で音声動画記録ができるまで暫定的に今回のツアーレポートを掲載します −
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いよいよ衛星中継で僻地の村おこしに直接参加が可能に

- 2001年8月15日から21日までのネパール山村村おこし支援ツアー報告 -

(未校正の暫定バージョンの発表について)

我々一行の乗ったロイヤルネパール航空のジェットはいよいよカトマンズ市の郊外が見える高度まで降下、着陸寸前の空からのカトマンズ高原の光景です
(1)ヒマラヤ山麓の高原地帯にあるネパールの首都カトマンズの東のカブレ地区の山間に広がる村落の仏画画工養成スクールへの支援いよいよ本格化

20世紀の初頭イギリスの小説家ジェームス・ヒルトンの書いた『失われた地平線(Lost Horizon)』で一躍欧米諸国でその名が知られるようになったヒマラヤ山麓の秘境ネパールは、20世紀を通じてその神秘的な魅力を失いませんでした。20世紀の後半には、ネパールの自然と文化にとりつかれたのは欧米人だけではなく、日本をはじめアジアの比較的富裕な国々からも観光客やNGO関係者の来訪が急増してきています。
そのような変化はしかし、近代物質文化がカトマンズ市の姿を変え、農村や山岳地帯からの人口の流出は同市の人口を膨張させ、ガソリン車の急増と都市インフラの未整備は同市の生活環境を急激に劣化させつつあり、貧困と大気汚染とストリートチルドレンの増加は大きな社会問題化しつつあります。
私達がカトマンズのベースに使ったカンティプール・テンプルハウスはネパールの古い伝統的建築物を再現したホテルで、守衛もゴルカ族兵士の伝統的スタイルでした

今回のツアーの主目的とは、衛星中継のための地上ターミナルを、近代的な社会インフラが全くない山間僻地にあるこの仏画画工養成スクールに設置して、この学校に通う山村の若者達に国際的支援を提供しようというものでした。
外観だけではなく、室内の調度や装飾も古い時代のネパールの雰囲気をそのまま残していて、大変に東洋的でエキゾチックな雰囲気をかもしています


チベットに端を発してヒマラヤ山脈全域で受け継がれたきた仏教文化のシンボルのような『タンカ』(曼荼羅を始め多様な仏画)を画く技術の習得をめざす山岳地帯の若者たちの間には、遺伝子によって受け継がれてきたような『画才』を持つ者がいます。タンカを画き始めてその才能を花咲かせた若者はしかし、幾つもの峠を越えてカトマンズの画商に自分の画を売らねばなりません。そして、見え透いたことですが、彼らの画は驚くほどの安値でしか売れないのです。田舎出の彼らにはカトマンズに滞在すること自身が大きな経済的負担であり、どうしても相手の言い値で早く自分の画を売り払うしか方法がないのです。
バーチュアル・ファウンデーション・ジャパンは、昨年度の末に日本市民個人やグループの支援を得てカブレ地区の地元NGOの『仏教ダーシャンクラブ』が経営する仏画画工養成スクールの再開に成功し、数十名の青少年男女が参加して画業にいそしんでいまが、まだ大きな問題があります。たとえ画商の間で十分に通用する仏教絵画が完成しても、それをどのような手段で販売するのか、という問題はまだ解決してはいないのです。

バーチュアル・ファウンデーション・ジャパンが全面的に提携することとなった現地NGOヒマラヤ・ライト・ファウンデーション(HLF)の会長のシャクヤ、最高顧問のフリーデンソーン、民芸品担当部長のグルングの各氏と歓談する岡本夫婦

この問題の抜本的解決法としては、衛星中継によってインターネットの世界へのアクセスを可能にすることで山村に居ながら画いた仏画をまるで有機野菜のように『産地直送』で外国の方々に買ってもらう以外に無いというのがバーチュアル・ファウンデーション・ジャパンが今春に到達した結論だったのです。
衛星中継によるインターネット接続のテクノロジーに関しては、我々はすでに昨年度以来検討を重ねた結果、低コストで実用性の高い衛星サービスに、英語、日本語、ロシア語に加えて、ネパール語による電子メール翻訳サービスを組み合わせたシステムの開発に成功しており、今回のツアーは、このような方法による市場開拓に現地側の当事者がどのような意見を持ち、反応を示すかを実地に確かめると同時に、現地のNGOであるHLFとの戦略的提携の可能性をチェックするという目的で編成されたのでした。
一週間の滞在を終えた結果は劇的な成功でした。HLFとの戦略的提携関係の確認に加えて、現地側の反応は我々の期待を大きく上回るものでした。HLFの本部での会議に加えて、フリーデンソーン氏は、厳しいトレッキングを伴う二泊三日にわたる現地訪問に直接参加してくれた上、現地側との事前の調整に大きな役割を果たしてくれましたことは特筆に価します。
HLF本部を訪問した一同は幹部職員による歓迎を受け、同組織のネパールでの活動についての説明を受けました
HLFの事実上の創立者であるフリーデンソーン氏はアメリカ東岸のニューイングランド地方の出身ですが、早くから仏教に帰依してネパールに住み着き、ネパール語とチベット語をよくし、現地の文化伝統を尊重する人で、同氏以外のHLF職員は全員ネパール人であり、ネパールの僻地の地域社会に無公害の太陽光発電による灯火システムを導入するという仕事を村おこしの基軸にすえてのNGO活動を進めています。
僻地社会が通信衛星によってインターネットへのアクセスの機会を提供し、そこに住む人達がグローバルな情報化時代から取り残された陸の孤島とならないようにすることで村おこしを支援しようというバーチュアル・ファウンデーション・ジャパンの基軸NGO活動とは全く相互補完的な関係にあることが今回の旅行で確認されたのだとも言えます。

(2)このようなわけで、今回の山間部の奥地へのツアーは二つのNGOの共同作業を大きく前進させるものとなりました
日本政府のODA援助で日本の大手建設会社が手がけて今夏完成したという立派な自動車道路
カトマンズからチャーターバスで東に向かい、深い谷を見下ろしながら急峻な山肌を縫って走ると約二時間、舗装道路が突然終わりになります。食品中心の日常消費物資を売る小さな露天に近い店舗が並んでいる以外には何も無い地点に下ろされた私達は、小休止の後いよいよはるか向うの山に向かってトレッキングを開始しました。
沿道では谷間から山頂に向かって広がるモンスーン期の美しい棚田の稲が目に染みるような浅緑にかがやいているのを眺めながら、険しい山肌の棚田で一体どこから水を引いているのだろうと不思議に思っていたのですが、ネパールの稲作はその大部分が陸稲であり、谷間に近づくにつれて水のあるところでは日本と同じ水田稲作となっているのでした。
日本の作った立派な舗装ハイウエイは結構な観光道路ですが、この終点の有様を見ると、今後どのような経済効果があるのかは一向に見えてきませんでした

バスの後方に広がる緑の平地では水田稲作が、そして、その先に見える丘陵地帯に入ると陸稲の作付け地帯が広がりますが、畦には日本と同様大豆が植えられている場合が多いようで、一見水を落とした水田のようにも見えます。丘陵地帯の土質は酸化鉄を含んだ赤土で、雲母がキラキラとする砂混じりのものが多く、谷間に近い低い部分では温帯と亜熱帯の間のような植生も目に付きましたが、山道を上るに従って次第に温帯の日本の植生を想わせる、桔梗の原種のようなものや日本のおいらん草そっくりの植物が数多く目につきました。
8月という季節は、ネパールではまだモンスーン雨季の最中ですが、現地の人の話では、地球規模の気候変動のせいか近年は気象状態のばらつきが多く雨の少ないモンスーン雨季もある由ですが、私達の滞在期間は比較的天候に恵まれ、夜間に降って午前中には雨が上がるというパターンで、稲田の青さが目に沁みる他は傾斜地一面にトウモロコシが栽培されていて、ところどころにサトイモが葉を広げているというのがカブレ地区では一般的に見られる光景でした。

平地の水田を横切ると赤い山肌の露出した滑りやすい登り道となります。この時点で平地とはおさらばですが、遠くに見えるのがバスを乗り捨てた小集落です。
山道に入ると、すぐ気のつくのは奥地の谷間に散在する村落とバスの終点との間を往来する村人達の絶え間ない流れです。立派な観光バス道路ができたのでここの集落が都会的消費物資の『トレーディングポスト』となったのです。山道であった人々の多くは頭にかけた背負い袋に何がしかの消費物資を持って村に帰る人達や、畑で出来た作物をバスの終点を取り巻く屋台の店に持ち込む人々でした。
やがて、私達は最初の峠に辿りつき、ひときわ小高いところにそびえるヒマラヤ赤松の大木の下で小休止して涼をとりました。峠茶屋から振舞われたミルクと砂糖の入った熱いネパールティーの一杯に生き返った私達は、谷をへだてて周囲に広がる山並みと谷の深さに、ああこれからが本当のトレッキングの始まりだなと実感したものでした。

峠茶屋が右手に見えていますが、ここでは生活用水を確保するため谷間との間を往復する水汲みが大変な作業です。水牛を追う農夫の手前の大きな影は私達の休んだ赤松の大木のものです

相当の高度に達したので、左右の深い谷間には村落が散在していて白く塗った壁がきらきらと白く光ってみえました。水田稲作が主体の日本の農村では『むら』と言えば鎮守の森を中心に農家がそれを取り巻くように集まっている、いわゆる『集落』をイメージするのが普通ですが、ネパールの山間部では、下の写真にもあるように、個々の家々は広い範囲に散在しているのです。このような形態の村落を的確に表現する日本語が無いことを改めて思い知らされました。
このような山の傾斜地や谷間での農耕は、天水に依存する畑作が主で、最上部には比較的水の要らないトウモロコシが多く、その下に陸稲の米作、更に谷間に下りるとその一部が水田となる、というのが一般のようです。モンスーンの雨が少ない年には厳しい干害になやみ、雨量の多い年には水害による田畑の損傷がおこり、生活基盤の不安定さは否めません。
山間に広がる分散型の村落の典型的な例で、写真では肉眼では見えないがこの周囲一体が畑作農業の耕地となっていて、比較的大きな村の場合は端から端まで歩くのに二日、三日とかかる場合もあるという
遠くから眺めた村の風景は緑の谷間の星のようにしか見えないが、険しい小道を辿って近づくと一つひとつの家の佇まいは実に箱庭のように美しいものも多いのです。ただし、一見牧歌的に見える山間風景ですが、上述の日本のODAでできた観光ハイウエイがよい例ですが、便利になる交通手段を通じて都市の消費文化が次第に山村に浸透し、、その結果近年には村の若者の間で現金収入への欲求が目立ち始め、山村の若年人口の流出現象とカトマンズをはじめ地域都市で多数の失業者やストリートチルドレンの問題を生んでいます。
他方、山村内部ではこのような傾向に終止符を打つにはどうしたらよいか、村の経済基盤を維持、拡大することで若者の離村を防止し、地域ごとの文化伝統を維持、継承してゆくにはどんな選択肢があるのか、といった問題がが山間の村々では真剣に討議されてきているのです。
これは分散型の村の美しい画のような風景の接写であり、家の周りは丘の上までトウモロコシ畑となっています


そのような選択肢の一つとして試みられたのだカブレ地区での仏画(タンカ)画工を養成する寺子屋式の学校を始めようという計画だったのです。第一にそれは、村々に残るチベット仏教の文化伝統を次世代に継承するという役割を果たします。第二にそれは、村に居ながらにして現金収入につながるという意味でユニークな『村おこし』運動の起爆剤となる可能性があります。
二年前に始まったカブレ地区の寺子屋アートスクールはしかし、自主販路の無いまま出来上がった画を買い叩かれて学校は赤字を出しついに一昨年秋に一時閉鎖に追い込まれたのでした。バーチュアル・ファウンデーション・ジャパンはこのプロジェクトの重要性を認識して支援の手を伸ばし、昨年暮れには日米市民の支援を得て学校再開にこぎつけ、更に今回のツアーでは、衛星中継でこの学校と画学生をインターネット上で紹介し、タンカの直売のプロジェクトを提案したのでした。
子供は世界の何処に行っても同じです。それに、都会の物質文明による負の影響の及ばない僻地社会の子供達は特に創造性に富んで、眼に輝きがあります。この子達は自分で廃棄された自転車や子供自動車の部品を組み立てて作ったソリで急な山道を一気に滑り降りるのを楽しんでいました。

バーチュアル・ファウンデーション・ジャパンでは、もしカブレ地区のこの斬新な村おこしプロジェクトが成功すれば、同様な方法でネパールの多くの地方の地域社会がこれをモデルにしてそれぞれの地域文化の特徴を生かした村おこしプロジェクトが組めるに違いないとの確信を深めています。一度このような方法で外の世界と前向きの関係がインターネット上で生まれれば、これを出発点として数多くの市民レベルでの文化交流や経済交流が可能になるはずです。
日本がアジアの一国として抱える問題の一つに、いわゆる『歴史教科書問題』がありますが、これなどは基本的に言ってアジア人同士がお互いの歴史や文化についてそれぞれ抱いている理解や感情についてあまり知らない、いや、知る機会がないままに今日まで生きてきているという事実が大きな原因だと考えられます。アジアの諸国の国民の一人ひとりがネパールプロジェクトのような方法でお互いを顔のある人間個人として知りあう機会が出来れば、これこそ、21世紀のポストIT革命の時代を先取りする快挙と言えないでしょうか。

(3)いよいよカブレ地区のタンカ画工養成スクールのある村に到着しました

幾つもの峠を越えた私達一行はついに午後おそく目的地のスクールに近づき, 最後の峠を越すと小高い丘に仏陀の塔のある所に着きました。
この仏陀塔の周囲にも生えていたヒマラヤのイラクサとは、青しそのような葉を持った一見何気ない雑草ですがその茎にはいたるところに鋭い棘があってそれに触れるとまるで蜂に刺されたような痛みがあり、人によっては腫れ上がって水膨れができるのです。

中国を経由して伝来した日本の仏教とは異なって、この国の仏教はインド直輸入のチベット仏教なので私達には少々違和感はありましたが、それでも同じ仏教文化の絆を感じながら丘を下りる途中村の衆とも会い、私達が苦手のイラクサに完全な免疫を持ったじいさんに驚いたり、子供達と前後して歩きついに学校にたどり着きました。
学校も小高い丘の上にあり、昨年度からの再開の準備には村人が無償で校舎や外壁の修復作業に参加してほぼ基礎的な施設は完成し、ヒマラヤ・ライト・ファウンデーションが設置した太陽光パネルによる室内照明システムも完備し、学校の入り口には『ウエルカム』の赤いサインが私達を迎えてくれました。学校の経営を支援している現地のNGO『仏教ダーシャンクラブ』の好意で私達は学校のゲストハウスに宿泊させてもらうことが出来たのはモンスーンの季節には特にありがたいことでした。
驚いたことに私達は学校の前で現地関係者だけではなく何頭もの牛に迎えられました。山深い村の不思議な光景でした


ここで少しこのタンカ画工養成スクールの実情についてお話ししておきましょう。「寺子屋」という表現を使いましたが、これには訳があります。先生の部屋も、私達の泊まった外来客用の部屋も板張りの床ではなく土間でしたが、教室だけは床には古いプラタイルの敷物が敷いてありました。生徒の年齢はまちまちで、下の写真にあるように一人ひとりが思いおもいにそのまま座って絵をかいているのを僧服の若い先生が柔和な表情で眺めて居る風景が寺子屋のイメージだったのです。私達は学校からお借りした茣蓙の上にめいめい持参した寝袋を広げて寝ました。
学校の校長さんは地元の人で、開設以来報酬は一切受けずに運営に献身してきたのだと聞きました。仏教だーシャンクラブも同様です。そして現在画業に励んでいる40名近くの生徒は、早朝から自分で教室に足を運び、ひとりでもこつこつと線描きのデッサンや、岩絵の具で吉祥紋を画いています。年齢的にも幅広く、画業の進んだ30絡みの青年男女から小学生のような子供まで多様で、皆それぞれの年齢に応じた才能の持ち主なのが印象的でした。
女性の参加も目立ちます。山村の生活ですから日の高いうちは激しい労働をする男達ですから、昼間のクラスには女性が、夜のクラスには男が多いように見えました。

この女性たちは吉祥紋についての比較的簡単な図柄の習作にはげんでいました。ヒマラヤ・ライト・ファウンデーションでは、彼女らを中心にして僻地の山村の家庭に太陽光パネルを使った電灯の導入するプロジェクトを進めています。一度家庭に電灯がつけば、この女性たちは家庭に居ながらにして画業を続けることができるのです。そしてこれが現金収入につながれば、それは単に山村の過疎化を防止するだけにどどまらず、家庭生活の場での婦人の地位向上にも大きく貢献するはずです。
私達は寺子屋スクールのクラスの皆さんの熱心な態度を見ていて大いに勇気付けられたのでした。もしここで見た状況がネパールの僻地社会にも当てはまるとすれば、仏画や伝統的民芸品による村おこしのプロジェクトが成功する可能性は非常に高いと実感したからです。
これは上級の生徒でもう一人前の画工の腕を持っているとの評価を得ている一人です。この絵はE-バザールにも展示されていますのでご覧ください

このレベルの技能を持った数名の画学生がこの学校にはいるのは頼もしいかぎりです。バーチュアル・ファウンデーション・ジャパンでは、帰国早々にE-バザールのウエブサイトの構築作業を開始して、11月までには立ち上げる予定です。これが完成すると、例えば日本の皆さんはネパール・ギャラリーのページを開くと、まず仏画画工養成学校のトップのアーテイスト達の顔写真と制作中の作品が見られます。画面の上部の『ここをクリックすると作者の住む村に........』は、現段階では本レポートですが、将来は現地の光景をビデオストリームします。そして、そのページの下部の赤ボールをクリックすると電子メールの書式が現れ、自由に日本語でネパールの若いアーテイストにメールを送れば、それがネパール語に翻訳されて、衛星中継で本人に届くのです。もちろん、彼からのネパール語の返事は現地で英語に翻訳され衛星中継で日本に届き、日本語に訳されてあなたのメールボックスに送られます。
中学生から高校生の年齢の少年達です。かれらが一番大事な人達であり、これから村の伝統的畑作農業を覚え、村の明日を支えるべき世代です


この世代の若者達でこの学校に通っている者は、畑仕事のかたわら仏画を画いて現金収入を得る途が開ければ当然自分の村に住み続けたいと考える若者達なのです。ネパールは世界でも珍しいほどの人種と文化の多様性と宗教を平和的に共存させる伝統的に守ってきた国です。その結果、この国には多様な伝統芸術と民芸品が今日でも存在しています。ここではタンカと呼ばれる仏教絵画のみが取り上げられていますが、ネパールの僻地社会にはまだまだ数多くの芸術品や民芸品が秘められているのです。しかし、この年代層の若者達が離村し都市に流入してしまっては、このリッチな文化伝統は遠からず失われてしまうでしょう。

私達は特に許可を得て進行中のクラスの写真をとらせてもらいました。窓からは、このことを聞きつけて多くの少年達が見守っています
この写真を見れば、クラスの熱気のようなものが感じられませんか?かれらは明るく、その上真剣そのものでした。年齢層も違えば、技術のレベルも違う学生達が和気藹々と、そして一人ひとりがまるでまわりを気にせず自分の仕事に没入している、という雰囲気なのです。先生は静かにクラス全体を見つめていましたが、先を尊敬する気持ちが生徒達の態度からひしひしと感じられました。
簡単な仏教シンボルがかかっている土を塗っただけの灰色の荒壁とうす紫色の床以外には、椅子や机はおろか何の調度もない教室ですが、何とはなしに若い人達の熱気ではなやいで見え、これこそ『自主学習』というものだという感じで、まるで遺伝子の中にある何者かが指先を通して湧き出てくるような学習態度で、いまさらながら長い年月をかけて培われた伝統文化の生命力を感じさせられた日でした。

画用紙はネパールの山奥では貴重品です。線画のデッサンの練習はこのような黒く塗った板にチョークを塗った白板で行われます
高校生以下の少年達はその殆どがこのような『白板』をつかって仏陀の姿や吉祥紋のデッサンの練習をします。日本の子供達が何気なく使い捨てる画用紙はここではとても貴重品なのです。できるだけ経費を切り詰め資金を上級生のための上質の岩絵の具や金粉の確保に当てています。この少年は釈迦の姿を線描きしていましたがやはりその線の持つ少年を思わせない闊達さと優雅さには感心させられました。
この日はこのレベルの少年が10名ばかり居ましたが、平均の技能レベルの高さは相当なもので、昨年末から今春にかけて多数の希望者の間から選考された少年たちだとは言え、将来が楽しみです。先進国の都会に住む同年齢の少年たちの絵と比較すると、それは美しいこの谷間のなかで育まれた伝統文化とそこでの生活が生んだ奇跡のようにも思えました。将来は、この線画のデッサンとその作者の少年の顔も見せることができるようにしてやりたいと考えています。
この日にクラスをみていた先生は隣国のブータンの僧院からこの学校に特別に招聘された若い先生はとてもチャーミングな微笑が印象的でした


僧衣で指導に当たっておられた柔和なこの先生は、画技に加えて、16年の僧院での修行経験を生かして、仏画の意味や、それに関わる仏教の教えの話も詳しくなさるそうで、ここでの教育は単に観光土産としてのタンカを画くのではなく、チベット仏教の伝統とそれが育んだ文化の様式を忠実に学習させることで、村に生きる若い世代にチベット仏教文化を継承してもらおうという仏教だーシャンクラブの意気込みが感じられました。
子供に直接にキャンディなどの菓子を与えることは遠慮してほしいという意向を聞いた時には、私達は村人の持つ自尊心にかえって感心したものでしたが、先生を通じて子供達の午後のおやつにどうぞという私達の申し込みは快く受け容れられました。

ヒマラヤ・ライト・ファウンデーションのフリーデンソーン氏は流暢なネパール語でインターネットと衛星通信の話をしました
フリーデンソーン氏は単にネパール語が流暢に話せるだけではありません。彼独特の説得力のある話術を持っています。仏教に造詣の深い同氏は、仏画の内容にまで触れながらインターネットの世界について話し、笑いを誘う表現で学生達の心を捉えます。同氏の話は事実しばしば学生によって中断され、質問が続出する有様でした。
今回のツアーに同行した京都の龍谷大学の学生さんもこの場面に居合わせたのでしたが、若い学生達からあふれ出る熱意に「感動しました」と率直な印象を語っておりました。ネパールのプロジェクトには龍谷大学の学生達がゼミを通じて関わってくれていますが、今回初めてゼミの学生が自分の意思でツアーに同行してくれたのは大きな前進でした。自分の人生観が変わるほどの大きなインパクトを受けたと言う彼女が今後ゼミの学生グループにどのよな影響を与えてくれるかが楽しみです。

(4)いよいよ村をあげての歓迎会のイベントが始まりました

学校のある小さな丘の斜面はなだらかな傾斜のある芝生に似た美しい緑の草むらで、村を上げての歓迎会の野外会場は、朝もやの中でここに設営されました。

会場には色とりどりの三角形の小旗のついた綱がはりめぐらされて、ひな壇の前にはマイクとステレオスピーカーが設置されていました。司会者として活躍したのは仏教だーシャンクラブの会長で、地元の長老や指導者を手際よく紹介たあと、この写真にあるように、若い主婦を紹介しましたが、もうこの時には400名を越える村の老若男女が集まった会場でマイクに向かって話すことがしばらく出来なかった彼女は、とつとつとした言葉で、仏画を画く技を身に付けた自分の生活がどのように以前とは違ったすばらしいものになったかを訥々とした表現で語ってくれました。
観衆の拍手の中ではにかみをからだいっぱいに見せた彼女の姿は、現在学校に在籍して日々学習にはげんでいる青少年達にとってもおおきな励みになったに違いありません。

演壇から向かって右側の人の列。中には2日も3日も歩いて来たという人達もいました


芝草の会場をぐるりと遠巻きに取り巻いた村人達は最後には500名近くになったといいます。これはこの谷の村の大多数の人達であり、イベントの一部としての伝統民族舞踊の出し物に関心があったのも事実でしょうが、やはり、今回の我々のプロジェクトで衛星中継によるインターネット接続によって外の世界と直接交流することが生まれて初めて現実のものとなるのだという期待感がみなの心にあったのだと思います。
主賓である私も10分ばかり皆さんにご挨拶を英語でやり、ヒマラヤ・ライト・ファウンデーションの若いネパール人職員が通訳に当たってくれました。その中で私はこれからは日本の人達と村に居ながら直接にメールを交換し、言語障壁なしにお付き合いができるようになるという説明には若い人の拍手が多く、年配の方々の間ではまだまだ実感のない方が多いようでした。


マイクの後ろのひな壇にはこの地方の名士をはじめ、ネパール国営ラジオの方までがおられました

私が首からかけている淡い黄色の絹のスカーフは、遠路からの訪問客に対しての歓迎を意味するギフトでネパールで広く見られる習慣です。ひな壇を作るには、学校の機材や、数少ない椅子と机が全部村人の手で持ち出されました。この席で私は日本側で今回のプロジェクトを成功に導いた支援者であるソロプティミストをはじめ具体的な個人やグループの名をあげて説明しておきましたが、このヒマラヤの渓谷に住む人々が近い将来には日本の支援者の方々と直接に交流する機会を実際のものにすることができるのだと思うとある種の感慨を禁じ得ませんでした。
今回のプロジェクトをネパール語のバージョンで見せることができれば、このプロジェクトの存在意義を理解するネパール国民の数は飛躍的に増加するに違いありません。

かくして我々のミッションの主要部分は完了しました。現地を去る前夜の夕食には、シェルパの方々による心づくしのお祝いのケーキがついていました。

ここで、私達の二泊三日のトレッキング旅行について多少説明をしておきましょう。このレポートの最初のところで私達が貸切バスを降りて山登りを始めたと書きましたが、これには、衛星通信用のアンテナ、地上ターミナルといった機材に加えて、シェルパ5名とヒマラヤ・ライト・ファウンデーション側の4名に日本からの私達4名、合計13名の大所帯で、これだけの人数の食事のための食材と、炊事用具一切をシェルパ達が背中に背負ってけわしい山道を歩くのですから大変です。この『最後の晩餐』にあるテーブル、椅子、食器、その他すべてがシェルパの背で運ばれ、ここに加えて、臨時に設営される厨房の機器、器具があります。縁の下の力持ちの役割をだまって果たしてくれたシェルパには感謝せざるを得ません。

(5)帰途の山道で見たもの、考えたこと

下りの山道で至るところの茂みや小道から飛び出してくる少年達。通学の途中で皆制服姿で清潔な感じの子が多かった

帰途についた私達には思わぬことが起こりました。見たところ高学年の小学生から中学生ぐらいの制服の少年達が多数私達を取り囲むようにして一緒に歩き出したのです。歩くに従ってその人数は増え続け、谷間のはるか向うに学校の建物が見えた場所で一緒に記念写真をとりました。彼らはすでに私達が誰で、何をしにこの谷間の村に来ていたのはを知っていましたから、いろいろと質問したげな表情の子たちもおりましたが、ネパール語のできない私達には、ただ笑いながら一緒に山道を下るだけでしたが、それでも楽しい雰囲気でした。 将来は、彼らの学校にも衛星中継のターミナルを設けて日本の学生との直接交流を考えるのもよいなあとなどと思う中に学校の前に来て更に多くの生徒達、中には高校生と見える年齢の学生を見て、再びその思いを強くしてまた彼らと記念写真をとりました。これ以外にも山道ではたくさんの子供たちに会いました。
高校生に見える学生達に囲まれた一行。この上の丘に学校がある

学校そのものを見ていると、私の思いがますます強くなるのを感じました。タンカ画工養成スクールの生徒はその大多数がこの中学と高校を一緒にした公立学校の生徒なのですから、この学校にもう一つ通信衛星の地上ターミナルを設置すれば、日本の中学や高校の生徒とインターネット上で直接の交流が可能となります。すでに、タンカ・ペインティング・スクールで日本人は日本語で、ネパール人はネパール語でメールを送ると翻訳サービス経由で相互に直接の対話が可能だからです。
それに加えて、タンカ・ペインティング・スクールのプロジェクトですでに現地の状況をビデオストリーミングで流す計画があるのですから、この学校が日本の学校と交流する場合当然同じことができるわけです。このようなやり方で日本とネパールの中学と高校の直接交流が可能であれば、同じことは、世界のどの国でも可能なは ずです。ガス、水道、電気、いや道路もない僻地でもそれは可能なのです。
このような形で日本の学校の生徒がアジアを始め世界各地の地域社会の学校の若い世代の生徒と国際交流が言語障壁なしにできるプロジェクトを開始すれば、日本だけではなく、他のアジア諸国でも21世紀の世界を担う次世代の人材を育成するのに大きく貢献するのは間違いないでしょう。

学校の校舎はほぼタンカ・ペインティング・スクールと同じで、設備が多少はより整っている程度です

下り坂とはいえ、昨夜からのモンスーンの豪雨で山道の赤土はぬかるんでいて足元に気をとられながらの下山でしたが、全員無事にカトマンズに帰着しました。途中、カトマンズやバスの中継地点から山間の家に帰る人達と絶え間なく行き交いましたが、この急な山道を日常的に往復して生活するネパールの人達の逞しい生活力には圧倒される思いでした。この写真にもあるように、小さな男の子をつれた若い母親が自分は大きな荷物に加えて赤ちゃんまで担いでこんなに明るい顔をしているのです。
このような小さな子供連れで山道を登る母親の姿は何の屈託もなく明るいものです

このようなトレッキングツアーは私達にとっては一生記憶に残る体験ですが、これだけで私達はネパールの人達と二度と合わぬ人生の旅人となってよいのでしょうか。いや、それではあまりにも失うことが多いのでは無いでしょうか。この貴重な体験を活かして日本人とねーパール人が相互理解を更に深め、長期間にわたって相互に協力してゆける関係の構築は不可能なのでしょうか。今回のトレッキングツアーを終えての私の感想は100パーセント前向きなものです。もし今秋タンカ・ペインティング・スクールの仕事が成功裏に始まれば、通信衛星の地上ターミナルをトリ・ラトナという名のこの学校に導入するプロジェクトは絶対に成功するでしょう。そして、この学校と日本の学校との直接交流が実現すれば、それは、遠からずネパール全土に広がるはずです。そして、この写真にある若いお母さんも子供と一緒に国際交流に参加するのはもう目に見えています。

(6)カトマンズに帰った一行は仕事の最後の詰めの間の時間を観光に当てました
カトマンズに帰った一行は久しぶりに市内の観光に半日をとりました。レストランでの食事にはやはり郷愁を覚えます

ホテルで熱いシャワーをあびて、冷えたビールを飲んだ私達は、やはり私達にとっては自然と都市文化の両方が必要なのだと実感しました。いよいよ帰国の日が明後日に迫っています。私はバーチュアル・ファウンデーション・ジャパンの責任者としてヒマラヤ・ライト・ファウンデーションのフリーデンソーン氏との今後の仕事の最後の詰めがありますので観光は割愛しましたが、一行のメンバーは最後に一日を観光に当てました。すでにバーチュアル・ファウンデーション・ジャパンの京都支部長の高町と一緒にカトマンズに残ってネパールの民芸品についての調査をしていた岡本美子が皆を案内して市内の観光をしました。
衛星中継テクノロジーを担当した松本さんはヒマラヤ・ライト・ファウンデーションが開発した太陽光パネル自動車に関心を寄せました。

ヒマラヤ・ライト・ファウンデーションは省エネと代替エネルギー利用の分野で興味深い開発努力と普及活動をネパールで行っています。このような電気自動車の開発以外にも、『ヘルプ』(Home Employment & Lighting Package)と呼ばれるプログラムをネパール各地で実施していますが、これは、太陽光パネルによる僻地村落の戸別電化を支援し、電化のコストは、明るくなった家庭で婦人が中心になって民芸品を作り、その売上代金で分割支払いをするという仕組みで村おこしを促進するものであり、この分野で今回のバーチュアル・ファウンデーション・ジャパンとの戦略的提携関係が成立したのでした。
ヒマラヤ・ライト・ファウンデーションのフリーデンソーン氏一家と同氏の自宅でくつろぐ岡本夫妻

カトマンズ滞在の最後の夜は、一行全員がヒマラヤ・ライト・ファウンデーションのフリーデンソーン氏のお宅に招待されて一夜の歓談とおいしい夕食を楽しむ機会に恵まれました。奥さんと一人息子の三人暮らしの家庭は広々として我々日本人にはうらやましくもあり、物価の安さを聞いて又びっくりでした。誰が見ても大きな貧富の差があるネパールの社会ですが、道行く人々の表情は不思議に明るく、特に都会を離れて僻地に入ると人の心の温かさが肌で感じられ、はだしの子供たちの目の澄んだ輝きは私達の心の中に焼きついたように残っています。

ヒマラヤ・ライト・ファウンデーションの幹部と歓談するバーチュアル・ファウンデーション・ジャパン一行のメンバー(右から、満田、一人おいて副島、高町の各氏


成功裏に仕事を終えたこの日の午後は、岡本、フリーデンソーン、シャクヤの三名が数時間を費やして今後の協力関係のあり方、相互の担当責任分野と権限の境界線、および当面対応の必要な諸問題について話し合いました。夕方になって一行のメンバーとヒマラヤ・ライト・ファウンデーション側の幹部が合流して夜のパーティとなったのでした。
ここで断っておきますが、左の写真の壁に掛けられているのは大変ユニークな図柄のタンカです。通常の曼荼羅形式ではなく、仏と宇宙そのものが迫ってくるような迫力のある構成と筆致で画かれた作品でした。ネパール式の表装は日本の掛け軸と違い、軸の上と下の幅が曲線を画いて広がり、日本の場合上部に短く垂れている2枚のひらひらがネパールの場合には軸の下端まで垂れています。

日本でのように床に座って歓談する岡本とシャクヤと幹部職員たち。子供は無心に扇子であそんでいる
この一夜の体験は、私達の間の距離を個人的にぐんと近づけてくれました。次の日に上海経由でカン先国際空港に向けて発てばヒマラヤの山岳国家ネパールは再び遠い遠い世界になってしまい、当分の間は、お互いのやりとりはインターネットの電子メールに頼る以外にはありません。カトマンズがそうですから、今回トレッキングをして訪問したカブレ地区のタンカスクールなどは、今秋衛星中継が本格的に開始されるまでは全く音信不通の世界です。
それだけに、もしバーチュアル・ファウンデーション・ジャパンの今回のプロジェクトが成功して、日本の普通の家庭の居間にタンカスクールの様子や、日々進む作品のすがたや、学校の中庭をはだしで飛び回る元気な子供達の姿が明るい笑い声と一緒に持ち込めれば、それはアジアにとって21世紀の歴史的な瞬間だと言わねばなりません。

(7)いよいよホテルにもおさらば:カンティプールテンプルハウスのスタッフの行き届いた心やり

カンティプールテンプルハウスでは現在野心的な増築工事が進んでいて、来年度のシーズンには格段と優雅な利便性が増すはずです
一週間の滞在期間中私達のカトマンズのベースキャンプの役割を果たしてくれたのがカンティプールテンプルハウスです。かの有名な古寺の名をとったこのホテルは近代的な宿泊設備と優雅な古典的なネパールの建築様式と内装とを無理なく融合させています。それに加えて、エコロジー問題への関心の高い支配人のプスパさんは出きるだけ営業ゴミを出さないことに徹底していて、従業員教育も立派です。
同氏はエコツアリズムによる地域経済の浮揚に積極的関心を持っていて、一昨年にバーチュアル・ファウンデーション・ジャパンが始めてこのホテルを利用して以来、いろいろな意味での現地調査や情報提供に協力してきてくれております。

岡本夫妻とホテルの前の庭園でエコツアリズムについて話し合うプスパ支配人

カブレ地区のタンカ・ペインティング・スクールの衛星中継インターネットプロジェクトが成功すれば、それはまた、日本を含む諸外国からの新しいタイプのエコツアーの開拓につながる可能性があります。

カブレ地区を例にとりますご、例えば日本の方々で現地の若いアーティストとのメールでの交流の結果、タンカを直接に購入したり、アーティストの住む村でお互いの顔の見える小さな善意の支援プロジェクトを始めたりした方々は、ぜひ一度現地に行ってみたい、アーティストの住む村を訪問したい、と考えるようになるかも知れません。これは、大地に根を下ろした本当のエコツアーのあるべき姿ではないでしょうか。

日本の古い寺院や神社にもよく見かける竜の頭。その口からは精励清冷な地下の湧き水がほどばしっていて、古い時代のお寺の佇まいを再現しています


カンティプールテンプルハウス一階のダイニングルームの前にあるこの光景は、日本人には「どこかで見た光景」です。元は山清水や地下水がその水源だったのですが、カトマンズ市内では都市化によって自然の状態ではもうなかなか見られなくなっていますが、時々道路から石畳の階段を深くおりたところにこのような水場が残っていて、庶民の共同生活用水として利用され、同時に近隣の社交場としての機能を果たしています。
残念なことに、現地の水に慣れていない私達のような外国人にとっては、カトマンズは言うに及ばず、一般の人々が飲める水はタブーであり、ペットボトルのお世話にならねばなりません。このことは、一昨年北西部のフムラ地区で氷河の流れる山深い里でも言われました。

ホテルのプスパ支配人は本年初夏アメリカ訪問の途中で関西国際空港で私達と会議しましたが、今回はカトマンズでの再開となりました


このようなわけで、今回のネパールツアーは成功裏に終了したのでした。そして、今年の秋以降は、1)ヒマラヤ・ライト・ファウンデーションとの提携を強化、拡大して、まるで有機野菜のように、ネパールの穢れない僻地社会の生活の中から生まれたタンカや仏画、および伝統的民芸品のインターネット上のギャラリーを拡大構築し、地元社会と普通の日本市民との間での個人レベルの文化交流をはかり、同時に、2)来年度のシーズンからは上に述べたような形でのエコツアーを組織して見たいと考えています。
このような方法でネパール・ギャラリーが出来上がってゆく過程で、極東ロシアのアジア系先住民族や、フィリピンの山岳地帯に住むタガログ民族、更には中国の江南地方からベトナム、タイランド、ビルマといった国々と国境を接する雲南省やインドのアッサム州に至る諸地域のギャラリーを漸次立ち上げてゆく方針です。

報告者: 岡本 豊、2001年9月3日
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